鳥居正宏のときどきLOGOS

EU宗教政策諮問委員会最高評議官、社会民主党党員、アムネスティ・インターナショナル会員の鳥居が、政治・社会・文化・国際問題などについて、時々に感じることを個人的に書き綴ります。 (C)無断転用・無断転載不可。全ての記事の著作権は鳥居正宏にあります。

昨日、在日韓国人の学生さんと話しをする機会があった。彼とは、たまに顔を合わす。とても真面目で気の優しい男の子である。話しの内容は、たわいもない世間話だが、その子と話しをしているなかで、私は、


仲@ukiukiさんのブログ『多文化・多民族・多国籍社会で「人」として』の記事、
「日本人でよかった」まるたまちゃんvs.「外国人参政権」?♪田中康夫に、うさエール♪「国際救援隊」もあるよ。
http://ukiuki.way-nifty.com/hr/2007/08/post_6676.html


の内容が頭の中をぐるぐるとまわっていた。


そう、丸川珠代氏といえば、選挙人名簿に登録されておらず、期日前投票ができなかった(にもかかわらず立候補し当選までしてしまった)、現・自民党参議院議員なのだ。


8月18日に、この私のブログでも『ふとした疑問 −公園生活の人たちの選挙権は?−』というタイトルで、『日本国憲法』と『公職選挙法』との矛盾点を指摘し『公職選挙法』は、きわめて排他的であり、『日本国憲法』の精神に反する「悪法」ではないかと、問題を提起した。


詳細は上記8月18日の記事で法律的に検証しているので繰り返さないが、『公職選挙法』の規定は「選挙人名簿に登録のない者は、投票できない」というものである。つまり「実質的」に、選挙人名簿に登録のない者に選挙権はない。という事である。


にもかかわらず、丸川氏は、なぜか立候補し、当選までしてしまった。
選挙人名簿に登録のない丸川氏に選挙権があったのだ!


私は、彼女を当選させた市民の良識を疑ういっぽうで、彼女の功績は、仲@ukiukiさんも述べられているように、たいへん大きなものだと思う。


なぜなら、彼女は『公職選挙法』をぶっ壊したからだ!


つまり「選挙人名簿に登録のない者でも立候補して当選できた!」ということは、すなわち「選挙人名簿に登録のない者にも参政権はある!」ということを、彼女は身をもって実証してくれたのだ。


彼女の当選によって『憲法』よりも、もっと早急に(今日・明日にでも)『公職選挙法』こそ「改善」されなければならない。


例えば「選挙人名簿に登録のない者にも参政権はある」ということは、永住しておられる在日外国人の人たちにも、参政権は存在しなければおかしい。「役所に届け出た場所に3ヵ月以上定住していない」という理由で選挙人名簿に登録のないホームレスの人たちにも、参政権は存在しなければならない。


では、どのようにして、この人たちにも投票してもらうシステムをつくるか?


具体的には、8月18日の記事で提案した。またその記事に村野瀬玲奈さんから、イタリアのローマ市でのすばらしい施策の紹介のコメントもいただけた。ぜひそちらも参照していただきたい。


いまこそ、閉鎖的・排他的な選挙制度を変えるべきだ。『公職選挙法』を「改善」すべきだ。そのチャンスは今しかない。もし、このまま何もかわらなければ、丸川氏の当選の意味はない。いや、不法行為で迷惑だ!


参政権は、民主主義社会の根本であり、最も基本的な市民権である。その基本的市民権が、永住しておられる在日外国人の人たちやホームレスの人たちにも存在するということは、それに付帯してくる全ての市民権も同時に存在しなければならない。


市民権とは、何もかもを含めて「市民権」であって、参政権だけを付与して他の権利を付与しないということはできない。参政権は市民権の核の部分であるから、そのまわりに付帯する他の全ての権利も自然とついてくるはず。


丸川氏の投じた一石の波紋は、果てしなく広がって行く。いや、私たちが、次々と後を追うように、その波紋を果てしなく生じさせてゆかなければならない。


さっそく、リアルの、在日外国人の人権問題やホームレスの人たちの人権問題に取り組まれている、いくつかの団体さんに提案してみよう。運動が広がって欲しい。世の中がかわって欲しい。この閉塞感に包まれた社会が、多国籍・多文化共生社会へと歩み出して欲しい。


この記事を読んでくださっている、議員さんや弁護士さん、はやく『公職選挙法』を「改善」することを、真剣に考えてくださいませんか?


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死刑制度存廃国の現状
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【2007年度調べ】


法律上死刑を廃止している国・・・100カ国
事実上死刑を廃止している国・・・30カ国
2006年度中に死刑を執行した国・・・25カ国


◎経済先進国で死刑制度を保持している国・・・日本と米国のみ
◎EU加盟条件のなかには「死刑制度を保持していないこと」とある

(国際連合経済社会理事会の調査報告に拠る)
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みなさん。いっしょにすこし考えてみましょう。。。
死刑を受ける側の人も、まちがいなく、人の子です。


考えてみてください。 この世に生を受けた時点では、全ての人の命は、その重さ、その尊さ、その尊厳には、何ら差はなく、森羅万象全てに対して、絶対的な価値のある、平等不可侵の存在であるはずです。


その後、その人がどのような人生を歩むかによって、その時代時代の社会的な通念や価値観によって、または、国、地方、民族、地域的な事情等によって、相対的に、善悪などの価値判断が行われ、定められた「法」によって、あくまでも相対的に、その人の人生の歩み、そのプロセスが裁かれるわけです。


ですから、「法」は時代時代によって必ず変化するものであり、したがって、その「法」によって裁かれる人の罪の重さも、必ず、時代時代によって、または社会的状況や地域、国々によって、必ず変化(違い)のあるものです。


このことから、定められた「法」はけっして絶対的なものではなく、その時々の社会の価値観などによって、相対的に、歴史的に、必ず変化してゆく、極めて不安定な判断基準なのです。


それは、いま、この瞬間の現象だけを捉えていては、なかなか理解できないかもしれませんが、千年・二千年という、長い時間の単位で、「法」とそれによって裁かれる「罪」、その結果もたらされる「罰(ペナルティ)」というものを捉えれば、「法」が極めて相対的で不安定で、浮遊した価値観であることは、誰にでも、容易に理解できるものであると思います。


例えば戦国時代には、敵を殺すのは名誉でした。しかしいま、自分の敵を殺せば、どのような理由があるにせよ、それは間違いなく殺人罪です。でも、これまでの戦争では、大量殺戮をおこなってきた張本人である1人1人の兵士は、いまだに罪には問われていません。その手で強奪・略奪を繰り返し、数えきれない程の人間を強姦・暴行し、残虐卑劣きわまりない手段で惨殺しておきながら、それらの行為は、それをおこなった兵士「個人」に対しては、現在、その全てが国家によって免責され、なにひとつとして罪に問うていないのです(罪に問うことは不可能なのです)。


このように、その時々によって、同じ事をしても(結果的な事実として、例えば人を殺しても)、時代背景や国家の都合などの事情によっては、法によって裁かれたり、裁かれなかったりするのです。現在、法とは、このように事情によって(場当たり的に)都合よく免責をおこなうような、それほど曖昧な概念(価値観)なのです。このようなことは、歴史を学べば、容易に理解できるはずです。


しかし、だからといって「法」を軽視してはなりません。「法」は絶対的に遵守しなければならないものです。それは、現時点(歴史的な判断ではなく)では「法」は絶対的な善悪の判断基準であり、その「法」によって、社会の安寧秩序が維持されているという、歴とした現実があるからです。


しかし、歴史の流れという視点で観れば、上述のように、歴史という絶対的な時間軸に対しては、極めて曖昧で不安定で相対的な「法」に対して、絶対的に不偏不滅の存在・価値観が、生命の尊厳であるといえるでしょう。


考えてください。それは、千年前、二千年前、あるいは百万年前においても、そして千年先、二千年先、百万年先の未来においても、「生まれてくる命」の尊さには変わりはありません。変わりがあっては、ならないはずです。


そして、その生命の尊厳を絶対的に保障し、全ての人が、あまねく享受することのできる最も崇高なる理念、すなわち、この世で唯一、生命と人間存在そのものを、絶対的かつ平等に保障する権利、それが「人権」なのです。


人が生きる権利すなわち「人権」「生存権」は、人が生まれながらに授かっている天賦の権利であり、このような「生まれながらに授かっている権利」のことを「自然権」といいます。

そして、人類がその歴史のなかで、社会を構成して行くにつれて、その社会秩序を保つべく、いろいろな法律や権利が制定されます。このように、あとから制定された法律や権利を「社会権」といいます(この時、自然権は社会権の中に組み込まれるという学説もあります)。

そして、近代法の2つの根本原則は「権利を奪う権利はない(権利を奪う法は存在してはならない)」そして「社会権は自然権を侵害できない」という原則です。

この「自然権不可侵の原則」は、王権神授説を否定し、近代民主主義を形成する根本理念ともなっています。

ですから、近代法治国家、民主主義国家であるならば、いかなる法律も「人が生きる権利」を奪うことはできないのです。

それから、死刑制度は、犯罪の抑止力にはなりません。それは、死刑制度を維持しているアメリカこそが、世界一の凶悪犯罪大国であり、銃社会。すなわち「銃」という武器を用いてしか自らの安全を守れないようなところにまで、社会が腐敗・堕落し切ってしまっているのです。

その反面、死刑制度を持っていない欧州諸国では、治安が比較的安定し、凶悪犯罪も少ない。

すなわち、死刑制度というのは、近代法・民主主義に真っ向から反する制度であり、その制度自体は、犯罪の抑止力にはなっていない、何らの社会的意義も持っていない制度なのです。

何らの社会的意義も持たないこの死刑制度によって、「国家」が人を殺してしまうのは、未開の野蛮国家、非文明国家だといわざるを得ないでしょう。

死刑制度の維持は、このように法的根拠はなく、また社会的意義もなく、単なる国民の「感情」でしかないのです。

単なる感情論で、国家が国民を殺す法律を維持しているということは、やはり、その国家は、もはや近代法治国家ではなく、民主主義国家でもありません。

それは未開の野蛮な「民族のクニ」での「オキテ」程度のものか、もしくは国家そのものが「暴君」と化した、「恐怖政治」だといわざるを得ないでしょう。

死刑という「制度」については、上記のように、「国家論」「社会論」で論じなければなりません。単なる「感情論」だけにこだわっていては、わたしたちの社会は、まったく進歩はなく、真の近代法治国家、真の民主主義国家へと成長してゆくことはできないでしょう。

死刑制度は、近代法(近代民主主義国家における法制度)を構成する2つの根本原則に2つとも、真っ向から反しているのですから。

私も、もし私の肉親や友人が誰かに殺されたりしたら、その犯人を「この手で殺してやりたい」と間違いなくそう思うはずです。

しかし、その思いを「国家」が「法」によって代行してはいけません。法は、人間の感情をはるかに超えて、社会秩序維持(社会権の擁護)と人間存在の肯定(自然権の擁護)のために存在しているのですから。

法には、人間の感情をはるかに超えた「理性」が求められるのです。

私は、死刑廃止論者ですが、即刻廃止すべきだとの急進的な考えは持っていません。とりあえず、死刑の執行を停止して、みんなでじっくり考えてみましょう。EU諸国をお手本にして、10年か20年ぐらいかけて、国民で議論しましょう。その間、とりあえず死刑執行は停止しておきましょう。という考えを持っています。民主主義社会では、市民の同意がなによりも重要です。

また、私は、死刑を廃止するかわりに、何らかのてだては必要だと思っています。欧州のごとく終身刑を導入するか、または、無期懲役などという曖昧な刑罰も死刑と同時に廃止して、懲役50年とか70年などという実質的な長期の懲役刑を制定するか。

そして、死刑は「例外的には」残しても良いとも考えています。その「例外」というのは、国家の存亡にかかわるような重大犯罪(具体的には、国家機密を外国に売ったり、外国に戦争を仕掛けたり、逆に外国から戦争を仕掛けられるように仕向けたりした場合)。基本的には最高刑は終身刑(または長期の有期刑)として、国家の存亡にかかわるような、極めて重大な犯罪にのみ死刑を適用するというのも、ひとつの方法ではないでしょうか?


さて、「人権とはなんぞや」と定義づけるのはたいへん難しいと思いますが、私は、人権とは、


「人として生きること」
「人として生きようとすること」
「人として、明日も生きていたいと願うこと」


であると解釈しています。 そしてそれは、何人にも、どのような力にも侵されてはならない、不滅の天賦の権利であると、理解しています。


ですから、それを侵そうとする存在は、たとえどのようなものであっても、絶対に見過ごしてはならない、黙認してはならない、許してはならないと思います。生命の尊厳に対する冒涜は、許されてはならないはずです。


絶対的な価値観であり、不滅の天賦の権利である「人権」、言い替えれば「生命の尊厳」「生きる権利」を、たとえその生命の保持者が、どのような人生を歩んで来たとしても、どのような罪を侵したとしても、先にも述べたように、不安定な価値観である「法」なるもので裁き、国家権力によって、その尊厳を抹殺してしまう行為は、それはまさしく、生命に対する冒涜以外のなにものでもないと考えます。


罪を侵した者には、絶対にペナルティは必要です。懺悔と反省と贖罪と更正の機会は、強制的にでも、そして徹底して科さなければなりません。しかし、社会的な価値観によって相対的に存在する「法」によって、不偏不滅の絶対的価値観である「生命の尊厳」「命そのもの」を裁くことは絶対にできない、絶対にしてはならない筈です。


裁かれなければならないのは「罪」であり、裁かれる側の人が歩んできた「プロセス」であるはずです。どのような事があっても、私たちは絶対に「命」そのものを裁くことはできないはずです。


例外なく、人には、他人の命を裁く権利は、絶対に与えられていません。私たちに他の人の「命」を裁くだけの、資格が、どこにあるというのでしょうか?


人間として、私たち1人1人は、他人の命を裁き、それを奪うことができる程の存在なのでしょうか?


すなわち、立場を逆に捉えれば、私たち1人1人は、いつでも他人から、自由にその命を裁かれ、奪われる権利を、私たち自身によって「法」で定めているという事なのでしょうか?


「法」とは、私たちが私たちを護るために取り決めた、便宜上の「決まり」であるから、私たちに、人の命を裁き、奪うことができる資格(権利)がなければ、すなわち、私たちに、人から命を裁かれ、奪われることを保障するような資格(権利)がなければ、そのような「法(死刑制度を規定した法)」が存在する事じたいが、矛盾であり、それは私たちの自身の生命そのものの存在価値を全否定しているものであり、すなわちその「法」そのものの存在じたいが、私たちにとっては究極の愚行であり、自殺行為そのものであると言えます。


原始人や未開人の集団での「オキテ」ならいざ知らず、近代法治国家・近代民主主義国家においては、その国家の「法」、すなわち私たち1人1人の総意によって民主的に取り決められたはずの「法」が、それを取り決めたはずの主体者である、私たちの命を裁き、奪い去るという自己矛盾を孕んでいることは、何ともおかしな現象であり、そのような「法」を擁する国家は、真の近代法治国家・真の近代民主主義国家とは言えません。


死刑制度を廃止した国々、とくに古くから民主主義が成熟してきた欧州の諸国は、そのことに気がついたのです。


私たち人間は、絶対に、命そのものを裁いては、なりません!


人が定めた法によって、人の命を裁く行為は、私たち自身が、私たち自身の生命の尊厳を犯していることであり、それは生命に対する明らかなる冒涜行為であり、まさしく自らの存在そのものをも全否定する行為であり、すなわち、それは天に唾するに等しい行為であるのです。


「法」の理想は、「正義」の実現でありましょう。しかし、いかなる状況にあっても、いかなる理由があっても、その「正義」という名のもとにおいて人の命を奪い去る行為は、「正義」に名を借りた「悪」の行為そのものであり、それは「正義」の名を借りていることによって、「正義」に対する冒涜以外の何ものでもなく、そこには真実の「正義」のひとかけらも存在し得ないのです。


何びとにも与えられている、天賦の権利、


「人として生きること」
「人として生きようとすること」
「人として、明日も生きていたいと願うこと」


死刑は、その人権を侵害する、残虐・卑劣な制度です。
最も深刻な「人権侵害」です。


もし、死刑が執行されてしまってから、それが冤罪だったとわかって、あとから真犯人が出てきた場合に、国家はどうつぐなうのでしょうか?


何億・何兆というお金を積んだところで、いちど国家がその強大なる国家権力によって奪い去った命は戻りません。「まちがいでした」では済みません!


米国では、1976年以来処刑された1000人以上の人の中で冤罪によって死刑が執行され、あとから真犯人が見つかった例が少なくとも8件はあるという、米国の人権団体(Death Penalty Information Center)による、国連へ提出された信頼できる調査報告があります。その報告はきわめて正確なもので、国連経済社会理事会の資料となっています。


ですから私は、日本においても、あと10年か20年くらいの間論議を尽くした上で(その間は、とりあえず死刑の執行は中止しておいて)、我が国も欧州諸国のように「真の近代法治国家として」成長することによって、死刑制度の廃止を願い、そして生命そのものを裁くことのない、死刑にかわる終身刑もしくは長期の有期刑などの導入を強く支持します。



欧州連合(EU)宗教政策諮問委員会/Y.S.E.E. 最高評議官
鳥居正宏


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「世界市民」の鳥居正宏です(笑)。


「世界市民主義」という考え方は、すでに古代ギリシアのストア学派の流れを汲む一派のなかにあったのですが、私がまだ大学1回生だった20年前に、この「世界市民主義」の影響を受けて、若気の至りで起草(妄想?)した『世界市民憲章』なるものを、ここに紹介させていただこうと思います。これは『世界人権宣言』の型式に倣ったものです。昨日、何気なく学生時代のノートを捲っていたら、出てきたので、データに書き起こしてみました。せっかくなのでブログに載せてみようかと・・・ちょっと恥ずかしいのですが。。。





『世界市民憲章』



(1987年4月27日 鳥居正宏 起草)


(前文)
私たちは、世界市民の一員として、自らが世界中の人たちと、年齢・人種・民族・国籍・言語・宗教・思想・文化・信条等の相違にとらわれることなく、平等、対等かつ平和的に共生・交流し、積極的に連帯を保つことによって、日々日常の生活のなかから、世界の文化の交流と平和の実現を目指そうとすることをここに誓うものである。




第1章[世界市民の定義]

第1条
世界市民とは、地球上に生きる全ての人たちを指し、これらの人たちは、すべての国際法の精神に則り、年齢・人種・民族・国籍・言語・宗教・思想・文化・信条等、その他のいかなる理由による、いかなる差別・迫害も受けてはならないことを定義とする。




第2章[世界市民の義務]

第2条
世界市民は、世界市民の間において種々の問題が生じた場合には、世界市民はけっして暴力・武力によることなく、関連する国内法と国際法に則り、合法的に対話と議論を尽くし、互いの最大限の利益を互いに模索しながら、平和的に問題を解決できる妥協点を見出すことを唯一の義務とする。




第3章[世界市民としての禁止事項]

第3条
上記第2条の規定により、世界市民は、暴力・武力による威嚇行為は、いかなる場合においても、これを絶対に禁ずる。


第4条
上記第2条の規定により、世界市民は、暴力・武力の行使は、いかなる場合においても、これを絶対に禁ずる。


第5条
上記第2条の規定により、世界市民は、暴力・武力の威嚇行為およびこれらの行使にかかわる機器および組織の保持は、いかなる場合においても、これを絶対に禁ずる。




第4章[世界市民への差別・迫害の防止]

第6条
世界市民が、年齢・人種・民族・国籍・言語・宗教・思想・文化・信条その他のあらゆる理由によって、差別・迫害を受ける危険性のある場合、もしくは受けた場合、もしくは受けていることを知った場合には、世界市民の個々人の判断により、速やかに各種関係機関(国際機関、国内政府機関、行政機関、司法機関、警察機関、および各種NGOないし市民団体等)へ通報し、その差別・迫害を防止・中止させるよう働きかけることができる。




第5章[世界市民憲章の目的]

第7条
私たち世界市民は、自国の利益だけでなく、世界全体の利益を追求する。


第8条
私たち世界市民は、自国の繁栄だけでなく、世界全体の繁栄を追求する。


第9条
私たち世界市民は、自国の平和だけでなく、世界全体の平和を追求する。


第10条
私たち世界市民は、自国の環境だけでなく、世界全体の環境保全に努める。


第11条
私たち世界市民は、自身の幸福だけではなく、世界のすべての市民の幸福を願い、これを追求する。


第12条
私たち世界市民は、自身の権利だけではなく、世界のすべての市民の権利を擁護し、これを追求する。


第13条
私たち世界市民は、国際法、とくに『国連憲章』『ユネスコ憲章』『世界人権宣言』などの、平和と人権と人道と文化を護る国際法の精神を尊重する。


第14条
私たち世界市民は、上記第13条の規定により、あらゆる戦争に反対する。また戦争を行おうとする国家に対しては、個々人の意志と判断により、自身に危険の及ばない範囲において、当該国家の政府に対して、合法的に明確に反戦の意志を表明すことができる。




第6章[世界市民としての誓い]

第15条
上記第5章の各条項の目的を達成するために、世界市民は、自らが世界市民として常にその誇りと自覚とを持ち続け、それぞれの日々日常の生活の範囲内において、この崇高なる理念を忘れず、みずからのでき得る可能な限りの範囲内において、個々人におけるその努力と実行を怠らないことを、ここに誓う。




第7章[世界市民としての資格]

第16条
この憲章に賛同するすべての者は、世界市民としての資格を自動的に有し、世界市民となることができる。


第17条
世界市民は、いかなる場合においても、みずからの意志によらずにその資格を喪失することはない。


第18条
個々の世界市民における個別の事情により、世界市民は、いつでも自由にこの憲章をみずからの意志によって破棄し、同時に世界市民としての資格を破棄することができる。


第19条
上記第18条によって世界市民としての資格を破棄した場合においても、自己の意思で自由にその資格を復活することができる。


第20条
世界市民としての資格の破棄(喪失)、またはその復活(取得)においては、いかなる場合においても、第三者の干渉を受けることなく、世界市民個人の意志のみによって、これをおこなうものとする。





起草当初は、これが各国語に翻訳されて、市民レヴェルで世界中に流布し、賛同者が増えればいいのになぁ。。。などと、若気の至りで「超」誇大妄想を抱いていたのでした・・・若かりし頃の想い出。。。遠いまなざし(笑)。


※賛同の「拍手」をしていただければ、起草者として、とっても嬉しいです。(笑)


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私は、東京の杉浦ひとみ弁護士を中心とした、自民党参議院議員の佐藤正久氏による「駆けつけ警護」発言に対する公開質問状等に賛同をさせていただきましたが、これとは全く別に、さきほど個人的に、下記の政党・政府機関に対して、以下のような独自の質問状を電子メールで送信いたしました。その文末近くには、あえて非常に辛辣な、チカラのある手厳しい言葉を連ねました。どうかみなさんも、個人的にどしどし、一市民の「市民の声」として、チカラある「民意」を送られてはいかがでしょうか?


===== 送信宛先 =====


首相官邸
http://www.kantei.go.jp/
内閣府
http://www.cao.go.jp/
社民党
http://www5.sdp.or.jp/index.html
民主党
http://www.dpj.or.jp/
国民新党
http://125.206.121.105/
共産党
http://www.jcp.or.jp/
自民党
http://www.jimin.jp/index.html
公明党
http://www.komei.or.jp/
佐藤正久氏事務所
http://www.hige-sato.jp/
佐藤正久氏の公開メールアドレス
sato.masahisa@hige-sato.jp


 =====  質問状本文 =====

(タイトル)
「自民党参議院議員 佐藤正久氏のいわゆる「駆けつけ警護」発言に対する質問と依頼」

(本文)
前略


2003年にイラク戦争がはじまりました。これは、アメリカによる先制攻撃ではじまったものです。しかし『国連憲章』では「先制武力攻撃」を厳しく禁じています(『国連憲章』第1条の4)。またアメリカ軍は、イラクの市街地を空爆しました。しかし『ジュネーブ諸条約(追加議定書)』では、文民(一般市民の)保護を規定し、これに対する攻撃は厳しく禁じています(『第1追加議定書』第51条)。ですから市街地空爆などはもってのほかです。さらにアメリカは、クラスター爆弾や劣化ウラン弾など、人体と環境に著しい悪影響と後遺症を及ぼす兵器を使用しましたが、これも『ジュネーブ諸条約(追加議定書)』では、人体と環境に必要以上に悪影響を及ぼし、苦痛を与え、後遺症を残すような兵器の使用は禁止しています(『第1追加議定書』第35条など)。さらにアメリカは、捕虜に虐待をしていることも暴露されました。これは『ジュネーブ諸条約(追加議定書)』での捕虜の取り扱いに関する規定(『第1追加議定書』第44条、『第2追加議定書』第4条、同第5条など)はもちろんのこと、『世界人権宣言』(第5条から第9条)や『国際人権規約』(「A規約」第5条、「B規約」第5条、同第7条、同第10条など)にも違反していることです。


これらの、数々のアメリカの卑劣な蛮行、悪行三昧については、ブッシュ大統領を国際刑事裁判所(ICC)へ告訴し、彼に終身刑を課そうということが、いまEU諸国内の多くの法学者たちによって調査・検討されています。ブッシュ大統領はいま、これをいちばん怖がっているとのことです。


このようにアメリカは、ことごとく国際法に違反ばかりしているのです。そのアメリカの国際法違反の手助けをしたのが、日本の自衛隊です。日本政府は、国際法違反者であるアメリカからの要請で自衛隊を派遣しました。けっしてイラクや国連からの要請ではありません。「国際法に違反しているアメリカの要請で」自衛隊はイラクへ行ったのです。これは明らかに「国際法違反幇助」(つまり国際法違反に同罪)です。よって自衛隊派遣は、国際法違反であるばかりではなく、下記のごとく憲法第98条の(2)にも、あきらかに違反しています。


『日本国憲法』
【第98条】[憲法の最高法規性と条約の遵守]
(1)この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。
(2)日本国が締結した条約及び確立された国際法規(註:国際法のこと)は、これを誠実に遵守することを必要とする。


そのうえに、佐藤氏は、さらに、集団的自衛権の問題に抵触し、さらに『日本国憲法』第9条で禁止されている、武力の行使を、いわゆる「駆け付け警護」の名の下に、行う意図であったと発言されました。


民主主義国家においては、国政を預かり、民意を反映すべき、しかも「良識の府」である参議院の議員である佐藤氏が、上記の国際法の基本的な事項すら知らず、『日本国憲法』98条に違反した行為から帰還し、しかも民意ではない、いわゆる「駆け付け警護」の発言をされた事に対しては、佐藤氏の基本的な学識のレヴェルの程度、社会的常識と良識、そして政治家としての資質と人間性を疑わざるを得ないものであり、一市民としては、このような、国際法無視(もしくは無知)で、『日本国憲法』98条違反行為からの帰還者(いわば違法的軍人)が、国政の一翼を担うことに、恐怖と激しい嫌悪を抱いております。


佐藤氏の発言の撤回と反省、および出処進退を厳しく追及していただきたく(自民党と佐藤氏本人宛てには”明確にしていただきたく”)、ここに強く要請いたします。


草々


2007年8月18日


欧州連合諮問委員会 Y.S.E.E.
最高評議官 鳥居正宏



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私は、大阪市の中心部「日本橋」と呼ばれる地域のマンションに住んでいます(ちなみに、この地名の読み方、大阪は「ニッポンバシ」で、東京は「ニホンバシ」と区別するのが正解だそうです)。


うちの近所には、何軒かのネットカフェがあります。おそらく「ネットカフェ難民」と呼ばれる人たちも出入りしているのでしょう。また、公園や高速道路の高架下に住んでいる人たちも見かけます。


先の参院選の投票へ行くときに、ふと、1つの疑問がわいてきました。それは。。。


ネットカフェ難民と呼ばれる人たちや、公園や高架下で生活している人たちも、その多くは、おそらく日本国籍を有していて、派遣や、工事現場での日雇い労働、または空き缶やダンボールなどを集めて生計を立てている。懸命に、必死に、毎日を生き抜いている。そうした、この人たちの選挙権は、いったいどうなっているのだろうか。日本国籍を有する成人であれば、全ての人に選挙権があり、投票できるはずなのではないのか。


という素朴な疑問です。


私は、疑問を感じれば調べずにはおれない性分なので、さっそく『日本国憲法』をふたたび読みなおしてみました。そのなかで、私たち市民の投票に直接にかかわる(直結するような)条項としては:


【第15条】 
(1)公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
(2)すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
(3)公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
(4)すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。


【第93条】 
(1)地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する。
(2)地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。


という2つの条文だけでした。


そこで、これではよくわからないので、昨日、大阪府選挙管理委員会に直接電話をして、上記の私の疑問をぶつけてみました。電話の応対をしてくださった選管の女性は、たいへん丁寧に回答をしてくださいました。その回答とは:


「鳥居さまのおっしゃるとおり、日本国籍を有する成人、つまり20歳以上の人であれば、憲法の定めにより、全ての人に選挙権はあります。しかし、実際に投票をするためには、選挙人名簿への登録の義務があり、その選挙人名簿へ登録するには、役所へ届け出た一定の居住地に3ヶ月以上定住していなければなりません。ですから、おっしゃるとおり、路上生活の方々などにも、日本国籍があって、20歳以上であれば、憲法の定めによって、全ての人に選挙権はあります。しかし選挙人名簿に登録されていない場合、投票をする権利は認められていないのです」


うむぅ。。。どうにも腑に落ちない。
選挙権はあっても投票する権利がないということ?
それは実質上、選挙権がないのと同じではないか?


再び原点の『日本国憲法』に戻ってみよう。。。
(こういう煮詰まった時にこそ、原点回帰をするのが私の方法論なのです)


『日本国憲法』
【第14条】には、
(1)すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


とあります。つまり、公園や高架下の生活であっても、ネットカフェ生活であっても、政治的、経済的又は社会的関係において、いかなる差別もされないということが保障されています。


また、さきに掲げた【第15条】には、
(3)公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。


としか書いてありません。「公園や高架下の生活者、ネットカフェ生活者はダメ」などとは、どこにも書いてありません(あたりまえですが)。


そして【第22条】には、
(1)何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。


とあります。つまり、「公共の福祉に反しない限り」公園や高架下の生活であっても、ネットカフェであっても、居住、移転及び職業選択は自由だということです。


よって、選挙人名簿への登録がないから、投票する権利が与えられないという現実の問題は、『日本国憲法』のなかには、どこにも書いてありませんでした。


ではこの問題は、『公職選挙法』で詳しく規定されているのかと思い、『公職選挙法』を読んでみました。『公職選挙法』は、かなりのボリューム。


そして、ありました!


『公職選挙法』
【第9条】
 日本国民で年齢満二十年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する。

(2)日本国民たる年齢満二十年以上の者で引き続き三箇月以上市町村の区域内に住所を有する者は、その属する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有する。


【第21条】  
選挙人名簿の登録は、当該市町村の区域内に住所を有する年齢満二十年以上の日本国民(第十一条第一項若しくは第二百五十二条又は政治資金規正法 (昭和二十三年法律第百九十四号)第二十八条 の規定により選挙権を有しない者を除く。)で、その者に係る登録市町村等(当該市町村及び消滅市町村(その区域の全部又は一部が廃置分合により当該市町村の区域の全部又は一部となつた市町村であつて、当該廃置分合により消滅した市町村をいう。次項において同じ。)をいう。以下この項において同じ。)の住民票が作成された日(他の市町村から登録市町村等の区域内に住所を移した者で住民基本台帳法 (昭和四十二年法律第八十一号)第二十二条 の規定により届出をしたものについては、当該届出をした日)から引き続き三箇月以上登録市町村等の住民基本台帳に記録されている者について行う。



つまり『公職選挙法』第9条で「日本国民で年齢満二十年以上の者」と、基本的には憲法第15条の(3)の条文を踏襲しておきながらも、「日本国民で」との制限を独自に設け、さらに「引き続き三箇月以上市町村の区域内に住所を有する者」との厳しい制限も独自に設けている。


また『公職選挙法』第21条で「選挙人名簿の登録は、当該市町村の区域内に住所を有する年齢満二十年以上の日本国民」と、トドメをさしている。


翻って、『日本国憲法』の第14条、第15条、第22条を総合すると、これらの条文は、公園や高架下の生活であっても、ネットカフェ生活であっても、いかなる政治的・社会的差別も受けることなく、また普通選挙を保障し、居住、移転及び職業選択は自由であることが認められているのです。国家の最高法規である『日本国憲法』がそう保障しているのです。


にもかかわらず、『公職選挙法』では「引き続き三箇月以上市町村の区域内に住所を有する者」で「選挙人名簿の登録は、当該市町村の区域内に住所を有する年齢満二十年以上の日本国民」との厳しい「政治的な差別と排除」ともとれる制限をかけている。


この『公職選挙法』の排他的な制限事項は、『日本国憲法』第14条、第15条、第22条の精神に真っ向から反しているのではないでしょうか?


そこで、きわめつけの、ひとこと!


『日本国憲法』
【第98条】には、
(1)この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。


と明記されています。これは、たいへんにチカラのある条文です。


つまり、『公職選挙法』の政治的排他主義の制限事項は、『日本国憲法』第14条、第15条、第22条の精神に反しているのならば、『日本国憲法』第98条の規定によって『公職選挙法』そのものが「その効力を有しない」ということになりますよね。


さらに言えば『日本国憲法』においては『公職選挙法』にあるような「日本国民で」や「日本国民たる」というような、国籍を限定した条文は、どこにもありません。


『公職選挙法』そのものが、ネットカフェ難民と呼ばれる人たちや、公園や高架下で生活をしている人たちばかりではなく、たとえば、永住している在日外国人の人たちをも意識的に(「日本国民で」や「日本国民たる」との文言で)排除・差別している、排他的な法律であり、それは民主主義の理念に反し、本来ならば『日本国憲法』第98条の規定により「効力を有しない」のかもしれない。。。


『公職選挙法』は、上記のように、政治的・社会的な排他的事項を含んでおり、『日本国憲法』の精神に反する、かなり問題のある法律なのではないかと思う今日このごろです。


これにかわる(またはこの問題を解消する)1つの提案として、たとえば、投票所(期日前投票所に限ってでも良いので)、の一角に専用の窓口をいくつか設けて、公園や高架下で生活をしている人たちや、永住している在日外国人の人たちは、運転免許証や健康保険証、外国人登録証、その他公的な身分証を提示すれば(二重投票を防ぐために)コンピュータのオンラインシステムで即座にチェックをして、その場ですぐに投票をできるシステムはつくれないものか。


さらに、上記のような公的身分証のない人でも、「今回は投票したい!」という志を持っている人ならば、各市町村長や弁護士などの、法律上の公的な立場の人が、指定した投票日の1日に限って、無料(公費負担)でその人の身元保証人となって、指定投票日1日限り有効の身分証を発行し、上記の窓口で投票できるようなシステムはつくれないものか。


このようなシステムを構築することこそが、ほんとうの意味での「民意を汲む」ということであり、「民主」主義の基本理念だと思うのです。


私は、ずっと歴史学を学んできました(歴史は未来を映し出す鏡といいますが)。法律については、国際法は、国際アムネスティや、欧州連合の諮問委員会などで勉強をさせていただける機会を得ているのですが、国内法については、全くの独学なのです。


国内法における上記の問題、すなわち『公職選挙法』における政治的・社会的な排他主義的事項を含んでいる問題と、『日本国憲法』の精神、そして『日本国憲法』第98条の「効力を有しない」との関係について、民主主義の理念上、どう捉えればいいのか。『公職選挙法』は、もしかしたら憲法の精神に反する『悪法』なのか。


みなさん、そして法律のプロである法学者さんや弁護士さん、国会で立法をされる議員の先生がたなど、いかがお考えなのでしょうか?


もしよろしければ、ご教示ください。
まだ私の溜飲は下りません(笑)


気長に(何ヵ月でも)待っていますので、もしよろしければ、コメントをください。


【出典】
1.『六法全書 2003』三修社 2002
2.『公職選挙法』(電子政府法令提供システムよりダウンロード)2007


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ペリクレス
民主政の父ペリクレス
(B.C.495頃−B.C.429)
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きょう(8月15日)は、終戦記念日です。
我が国が、新しく民主主義国家への第一歩を歩み出そうとした日です。


そこで、そもそも「民主主義」とはいったい何なのか?
その理念の「原点」を確認してみたいと思います。


世に「人類史上最高の演説」と讃えられている、ひとつの名演説があります。
それは、いまから約2500年前にアテネで行われた演説です。


当時は古代ギリシア・エーゲ海文明の絶頂期で、例えばミロのビーナスがつくられ、4年ごとに古代オリンピックの競技が行われていました。市井の人々は文字を自由に操り、法を整備して、検察・弁護士制度を持ち、その裁判は、市民参加の裁判で、市民投票により判決が下されていました。また経済面では、国家により銀行が管理され、貨幣経済のもとで富の分配が行われていました。さらに、市民議会・市民選挙(立法・行政の可否についての投票など)という議会制民主主義が確立されていたのです(ただし、現在のような代議士制ではなく、全市民が全ての事に関して投票する直接民主政でした)。こうして、いまから約2500年も前(紀元前500年〜紀元前400年頃)に、人類史上初の民主政が実現していたのです。ちょうどソクラテスやプラトン、アリストテレス、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王などが生きた時代です。当時の日本は、まだ文字もなく竪穴住居に住んでいた縄文時代でした。


その名演説の主はペリクレス。彼はアテネの将軍職で、民主政の父と言われています。現代においてすら「最も理想的な民主政」と評価されている、古代ギリシアの直接民主政を完成した人です。彼はまた、かの白亜の大神殿パルテノンも創建しました。


彼の演説はずいぶん長いものですが、ほぼ同時代の歴史学者トゥキディディスが克明にそれを記録したため、幸運にも現代にまで伝わっています。それはいまでも西欧の人々の記憶に残り、何人もの政治家が自身の演説のなかで、かたちをかえて引用してきました。


以下に、そのペリクレスによる「人類史上最高の演説」の、エッセンスの部分を少し抜き出してみましょう。



ペリクレスは市民に向かって言います。


「権力とは一部の人間の所有物ではありません。あなたたち全ての人の幸せのために、あなたたち全ての人が所有し、あなたたち全ての人がこれを行使するためのものなのです」


「私たちの発明した政体は、少数者の独占を排して多数者の公平を守ることを旨とし、これを"民主政"と名づけます」


「この私たちの発明した民主政は、他のどの国家の政体にも追随するものではありません。他のどの国家の政体にも存在しないものであり、他のすべての国家の模範とならんとするものです」


「我が国では、争いが起きれば法律によって、全ての人に平等な発言が認められています」


「私たちの民主政では、個人の才能が優れていることがわかれば、不公平な平等は排して、その人に公の援助をし、その人の能力に応じて公の地位や仕事を授けます。その人が貧しいがゆえに、その人の将来が閉ざされることなどは、けっしてありません」


「私たちの発明した、この民主政は、神々の如くに輝き、永遠不滅でありましょう。そしてこの民主政による我らがアテネの栄光は、今の時代のみならず、はるか遠き未来にまでも、世界の人々の賞賛を浴びることとなるでしょう」


そして最後に彼は、


「徳に最高の栄誉を与える国には、徳が集まり、国が栄えるのです!」



と言ってこの名演説を締めくくるのです。


それから約2500年が経ちました。いま私たちの民主主義は、ずいぶんと老朽化し、疲弊しているのではないでしょうか?


かつて、今から2500年も前に、かくも偉大なる指導者が、人類史上はじめて、その理想を力強く高らかに謳いあげた、この輝かしい民主政(民主主義)の崇高なる理想・理念の原点に、いま、私たちは、立ち帰る必要があると思えてなりません。


「私たちの発明した、この民主政は、神々の如くに輝き、永遠不滅でありましょう。そしてこの民主政による我らがアテネの栄光は、今の時代のみならず、はるか遠き未来にまでも、世界の人々の賞賛を浴びることとなるでしょう」


このペリクレスの言葉の通りになっていますね。


しかし、この民主政(民主主義)も完璧だとは言えません(たしかに、今のところは、歴史上最も優れた政体であることは確かですが)。ひとつの大きな落とし穴があります。古代ギリシアは、この落とし穴に、ものの見事に嵌まってしまい、あっという間に衰退・没落してしまいました。


その落とし穴とは・・・ペリクレスという不世出の指導者なきあと(彼はこの演説の翌年に病死しました)、人々は政治のあるべき理念を見失い、ただただ「数の力」だけにモノを言わせて、少数者の意見に耳を傾けようとせずに「無理が通れば道理引っ込む」の状態で、政治的な理念・理性と知性を失い、破滅の戦争への道を突っ走ってしまったのです。


このような、民主政の落とし穴、すなわち、高度な政治的理念・理性と知性を失い、ただただ数の力だけにモノを言わせて押し通すという、堕落した民主政のことを「衆愚政」と言います。


昨今の日本は、果たして民主政なのか、それとも。。。


ペリクレスの力強い言葉(ロゴス)、


◎「権力とは一部の人間の所有物ではありません。あなたたち全ての人の幸せのために、あなたたち全ての人が所有し、あなたたち全ての人がこれを行使するためのものなのです」


◎「徳に最高の栄誉を与える国には、徳が集まり、国が栄えるのです!」


が、はるか2500年の時をこえて、まっすぐ胸に突き刺さってきます。


この「人類史上最高の演説」と讃えられるペリクレスの演説は、古代ギリシア文明の終焉に際し、その最期に燦然と輝きを放った、世界政治史上最高の金字塔だったと言えるのかもしれません。(了)


アテナ神像
智慧と正義の守護女神
「民主政の守り神」アテナ神
パルテノン神殿の本尊
※画像クリックで拡大


【参考になる資料】
1.トゥキディディス『歴史』京都大学学術出版会 2000


※この記事は、2006年5月19日に『大阪日日新聞』に掲載していただいたものに加筆をしたものです。




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クラウディオス・アイリアノス(A.D.200年頃)という著述家が記した『Varia Historia』(原訳「多彩な歴史」:日本語訳「ギリシア奇談集」)という書物を読んだ。そこに、以下のような、短いエピソードが収録されている。



「聖物窃盗の罪で死刑にされた少年のこと」


アルテミス神像の頭に載せてあった冠から、黄金の葉が1枚滑り落ちたのを、少年が拾った。しかしちょうどその少年がそれを拾ったところを人に見られてしまった。そこで、その子に対して、聖物窃盗犯として法廷が開かれた。法廷での陪審員たちは、いろいろな玩具やカルタ、それと例の黄金の葉をその少年の前において見せたところ、少年は、またもや黄金の葉に手を出した。陪審員たちは、肩を落とした。そしてその子は聖物窃盗犯として(市民投票による判決を経てから)処刑した。このことは、結果としては、その子の年齢のことは斟酌せずに、その子の犯した罪そのものを罰したのである。



古代ギリシアにおいては、誰でも神殿内に自由に出入りはできたようですが、しかし、神職や神官以外は(特別な祭儀の時を除いては)、神殿内陣(神室)内の神像や、その装飾物に触れれば(見るだけなら良い)、基本的には死刑だったようです(もちろん、法廷の場で弁明の機会は与えられ、情状酌量の余地もありましたが)。



しかし、上記の話の場合には、少年が偶然に、滑り落ちてきた黄金の葉を拾ったということで、なんとかこの子に罪を負わせずにおこうと、陪審員たちは、少年の興味をひく、さまざまな玩具やカルタなどを見せて、少年に(ある意味情状酌量というか)、罪を負わせないでおこうという良心が、法廷の場に働いたようです。しかし、少年は再び黄金の葉を手に取ったので、これでは仕方がないと、法に則って、処刑をしたということです(もし、これが少年ではなく、大人であったなら、即、死刑判決が出ていたでしょう)。


古代においても、このように、ギリシアのような文明社会(紀元前500年から紀元前400年頃)では、少年の罪に対しては寛容で、なんとか無実に近い形にしてあげようという「人間としての良心、心のあたたかさ」が働いていたことが読み取れます。


しかし同時に、かといって、法を曲げてまでの裁量はしない。少年であろうが大人であろうが、犯した「罪」に対しては同じ「罰」を受けさせるのが「法の下での万人の平等」であるという古代ギリシアの絶対的な法秩序も存在していたわけです。


そのジレンマのなかで、法廷の陪審員たちは、苦悩し、さまざまな玩具やカルタなどを用意したのでしょう。


私は、現在の日本において、単純に「少年法を厳罰化すればいい」という短絡的な考えかたには反対です。


しかし、犯してしまった罪の重さは、少年であろうと成人であろうと、同じものなのですから(少年だから「犯した罪」は軽いというはずはない。受ける「罰」は軽くとも)、そのことを少年に教育し、反省と贖罪をさせて、立派な社会人として更正させられるだけの「教育」が、この日本の社会には、まだまだ不十分なような気がしてなりません。


更正施設へ行く前に、罪を犯す前に、その歯止めとなる社会教育システムも不十分ではないかと感じています。


同時に、国家としてハード面(法律や更正施設)をいくら整えても、ソフト面(更正施設での教育・反省・贖罪・更正をさせるプログラムシステムと、そのプロセス、収容者とのコンセンサス、および被害者とその関係者の人権と生活を法律で手厚く保護するシステム)が充実していなければ、やはり少年犯罪をとりまく様々な問題(被害者感情・加害者感情・社会感情)は、「人間としての良心、心のあたたかみ」のレヴェルにおいて、納得できるものにはならないのではないかと思う今日このごろです。


2007年4月18日に、少年法改正案が、狂気の安部政権によって野党大反対のなかで、衆議院法務委員会で強行採決された(なんと、この週には、3度もの強行採決が繰り返された)。とてもじゃないが「人間としての良心、心のあたたかみ」を感じさせるような法案などとは、とうてい思えない。いまいちど、振り出しに戻って考えなおすべきではないでしょうか?


【参考資料】
※私は、原書に近い文献を参考としましたが、日本語訳では、
松平千秋・中務哲郎 訳『ギリシア奇談集』 岩波文庫 2003
に、もう少し簡単な訳文が紹介されています。



さて、明後日(8月15日)は、終戦記念日ですね。我が国が、新しく民主主義国家への第一歩を歩み出した日です。そこで、「民主主義」の「原点」といわれている、いまから約2500年前にアテネで行われた「人類史上最高の演説」と言われている名演説のエッセンスの部分を紹介させていただきたいと思います(以前に、新聞紙上で掲載していただいたものに加筆したものです)。


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豊臣・徳川による、長く凄まじい受難の茨の道を歩みつづけ、壮絶な宗教弾圧に耐えて、耐えて、耐え抜いて、ようやく新しい時代の到来とともに、キリスト教文化の輝きを放ちはじめた、かつての長崎の街。


この美しくも聖なる街に、キリスト教国のアメリカは、核兵器による死の放射能を浴びせかけ、一瞬のうちに破壊・殲滅し、地獄の焦土へと変えてしまった。


かくして東洋一の大聖堂・浦上天主堂は、一瞬のうちに瓦礫の山と化した。
堂内ではちょうど礼拝の最中であった。多くの人々が神に祈りを捧げていた。
神父をはじめ、全員が亡くなった。
聖堂の大鐘楼は、爆風で北へ30mも吹き飛ばされた。


こんな理不尽が許されていいのか!
こんな理不尽が「しょうがない」で済まされるのか!


そして。。。


彼らの心は、痛まないのでしょうか?
彼らには、良心がないのでしょうか?
彼らには、謝罪する気がないのでしょうか?
彼らは戦争に勝ったから謝罪しなくてもいいのでしょうか?


彼らは、夥しい数のキリスト者を、核兵器・放射能という悪魔の道具を用いて、無残に焼き殺したのです。


彼らは、絶対に、絶対に、絶対に、絶対に神の救いは受けられません!
なぜなら彼らは、いまだにこれを懺悔せず、その悪魔の行為を正当化し、夥しい数のキリスト者を放射線で焼き殺した、悪魔の道具である核兵器を作り続けているのですから!


私は、聖書にはあまり詳しくはないのですが、
『聖書』「マタイ伝」にはこんな一節があるようです。
************************************************
世は我に欺きを仕掛けぬ。
偽りとたくらみもて、
多くの網とひそかなる罠おば。
主よ、
この危うき中にて、
我を顧み、
偽る者の術数(てだて)より我を守り給え!


(J.S.Bach『マタイ受難曲』Nr.38 Choralより)
************************************************


彼らこそが、「欺きを仕掛け」「偽りとたくらみもて」「偽る者の術数(てだて)」なす、悪魔そのものではないでしょうか。


世界一大量に、大量破壊兵器を所有し、「テロとの戦い」と言いながら、世界中でテロ行為を誘発している国は、いったいどこの国なのですか?


彼らではないのですか?


人類史上、最も多くの人間を殺し続けてきている国は、いったいどこの国なのですか?


彼らではないのですか?


※私たちは被曝したのではありません。
※被曝させられたのです。
※我が国は「被爆国」ではありません。
※「被曝させられた国」なのです。


私たちに死の放射能を浴びせかけたのは、いったいどこの国なのですか?


彼らではないのですか?


彼らこそが世界一の「大量破壊兵器」所有国ではないのですか?
彼らこそが「ナラズ者の悪の枢軸」「テロ誘発国家」ではないのですか?


彼らの「錦の御旗」、大義名分によれば、彼らは彼ら自身を、
その自らの手で撲滅しなければならないのではないですか?


歴史と伝統あるヨーロッパの秩序の中では暮らせずに、その秩序からの「はみ出し者」たちが、ヨーロッパから逃げ出して、新大陸に移住し、アフリカからの奴隷を買いあさり、原住民を殺しまくって、自分たち白人の好きなように、白人たちの勝手放題、やりたい放題に、非理性的な知性のない国をつくって、そうして、いまやカネ(経済)と暴力(軍事力)のチカラだけで、偉そうに世界一デカイ顔をしている。


国連安保理を無視し、先制武力攻撃を仕掛けた。国際世論を舐めきっている。歴史の浅い、薄っぺらな、理性なき成り上がり者。我がままで、頭が悪くて、すぐ偉そうに拳を振り上げて暴力(武力)にモノを言わせる。卑怯で、卑劣で、臆病者で強がりの、知性も品格もない、世界一の身の程知らずの恥知らずとは、


彼らではないのですか?


彼らにこそ、国際刑事裁判所(ICC)の法廷で、法による鉄槌を下さなければならないのではないでしょうか。武力の行使を、戦争を、核兵器の使用を、テロの誘発を殲滅するために!


「ダメなものはダメだ」と、キッパリと彼らに言いきる、その理性と知性を、いま、時代は、私たちに求めているのではないでしょうか。人類史上唯一の「被曝させられた国」として。「被曝させられた者」として!


戦争は「絶対悪」です!
戦争をしないことのみが「正義」です!


この「正義」を明文化しているのが世界で唯一、
我が国の『日本国憲法』「第9条」なのです。


私たちの『日本国憲法』は、世界で最も誇り高き「正義の章典」なのです!
世界に誇れる「正義」の条文は、絶対に守り通さなければなりません!


「武力行使は、いかなる理由があってもダメ」なのです。
「ダメなものはダメ」「絶対にダメ」なのです!


最後に、戦没者とそのご遺族の方々には、次の詩を捧げます。
************************************************
憩いたまえ。
安らけく。
聖なる御躯よ。
いまを限りに、
はや御身に涙そそぐことはなし。


憩いたまえ。
安らけく。
しかして我らをも、
憩いに導きたまえ。


御身に定められし墓は、
いまよりこののち、
いかなる悩みにも閉じ、
塞がるることなかるべし。


しかしてその墓こそ我らには、
天つ御国への門口にして、
よみへの道を閉ざす標(しるべ)なれ。


(J.S.Bach『ヨハネ受難曲』Nr.67 Chorより)
************************************************



2007年8月9日
長崎原爆忌に記す。
戦争に対する強い怒りと、戦没者に対する心からの祈りを込めて!



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昨夜、ギリシアを訪問し、友人たちとカフェで語り合っている夢を見た。


ギリシアは、私にとって、憧れの土地であり、友人もたくさん居て、私にとって精神的な支えとなっている国である。今秋から大阪市内のギリシア語のスクールに通い、来年の春、アテネの友人たちのお宅に、数週間ほど滞在させていただく予定であった。


私は一昨年(平成17年)の12月に、ある民事事件に巻き込まれた。それで年が明けた平成18年2月に、知人の紹介で、ある大阪弁護士会所属弁護士(大阪労働者弁護団・大阪人権擁護委員会・大阪法友倶楽部幹事・京都大学卒の40才代女性弁護士)と事件の解決(損害賠償=示談金を請求する和解交渉)の契約を結んだ。しかし、今年(平成19年)の3月に、私は、その大阪弁護士会所属の弁護士によって騙されてしまった。その弁護士は、私と契約を結んでから13ヵ月もの間、ただの1度も契約内容を履行せずに、事件の時効の半年前になって、いきなり一方的に契約破棄・辞任の手続きを強引にしてしまったのだ。すなわち、私は弁護士詐欺にあってしまったのだ。


だから私のギリシア行きの予定は完全に破壊され、そのうえに、そのショックで私の病状は劇的に悪化し、私の主治医は「回復の見通しは、たたなくなってしまったなぁ」と言う。実際、当初は1日に2種類の薬を服用し、病気は順調に回復傾向にあったのだが、詐欺にあったあと、劇的に病状が悪化し、精神的なショックから立ち直れずに、入院の一歩手前にまで至り、いまでは毎日8種類の薬を服用しなければならなくなっている。そのなかには2種類同時に服用する強力な睡眠薬も含まれている。


とうぜん、私の主治医もその弁護士に対しては大激怒している。しかし私や私の主治医が、いくら追及しても、その弁護士は行方をくらましたり、居留守を使い、一切の連絡を拒否し、ひたすら逃げ回っている。


自分のしたことにヤマシサを感じていなければ、堂々と対話できるはずである!


いまの私の体力と経済状況では、その弁護士を詐欺として訴え、慰謝料等を請求できる余力すら残っていない。新たに力になってくれる弁護士の探しようもないままに、来月(2007年9月末)には事件そのものの時効を迎える。


大阪弁護士会は、このところ、立て続けに所属弁護士の逮捕者がでており、組織(つまりその構成員である1人1人の弁護士)がズブズブに腐りきっているのだろう。大阪弁護士会所属の有名な橋下弁護士が、先日テレビでこのような発言をしていた。


「弁護士会は腐りきっている。表には出てこない、所属弁護士の横領・セクハラ・詐欺まがいの不祥事が山ほどあり、弁護士会はその揉み消しに躍起になっている」


私は、橋下弁護士は嫌いだ。しかし彼のこの言葉には、私は上記の私の実体験を通して、納得できるものがある。


私は、私を騙したその悪徳弁護士とその弁護士との契約を仲介した法テラス大阪(当時はまだ大阪法律扶助協会だった)を、日本弁護士連合会(日弁連)と大阪弁護士会に訴えたが、双方とも「弁護士会は、個々の弁護士の個別の業務内容には一切関与しない。それぞれの弁護士にはそれぞれの仕事のやりかたがある」と繰り返すのみであった。


とくに大阪弁護士会の綱紀委員会および法テラス大阪は、上記の言葉を「お題目」のようにひたすら繰り返すばかりで、まったく私の意見に聞く耳持たず、門前払も同様に、私の意見を黙殺し、一切相手にしてくれなかった。所属弁護士の悪行を必死にかばい、その弁護士の詐欺まがいの不祥事のもみ消しに躍起になっているとしか考えられないような、まったくひどい対応だった。


大阪弁護士会綱紀委員会や法テラス大阪の私に対する対応・説明は、まるで「詐欺行為も弁護士の仕事のやりかたのうち」だと言いたいような、論理の破綻した、辻褄の合わない目茶苦茶な言い分だ。


私は、警察にも3回にわたり、その弁護士との契約書などの証拠書類を示して相談したが、警察は「悪質な詐欺まがいには違いないが、詐欺にも刑事事件としての詐欺と、民事事件としての詐欺まがいがあり、鳥居さんの場合は、民事的な詐欺まがいの被害者。つまり、その悪徳弁護士が鳥居さんと契約を結んでから1年以上もの間、契約内容の業務を一切行わず、鳥居さんの依頼した事件解決を1年以上もの間放置したうえに、事件の時効を目前にして、一方的にその弁護士が契約の破棄をした。すなわち、長期間に及ぶ契約不履行と一方的な職務放棄で、鳥居さんの依頼した事件の解決は何ひとつなされずに、鳥居さんは弁護士費用だけを騙しとられた。ということなので、これは契約不履行としての民事事件なんですよ。限りなく詐欺に近い詐欺まがいなのです。ですから警察は刑事事件での詐欺として立件はできないし、介入もできない。明らかに民事事件としての詐欺まがいの行為なのです。そのへんは弁護士は法律のプロなので、警察が介入できないように計算ずくなのでしょう。ズル賢いですねぇ。残念ですが、警察はお役に立てません」と言われた(※鳥居註:後に「実費分」を除いた金額だけは返還されたが、カネさえ返せば良いという問題ではない。契約事項である「事件の解決(和解交渉・示談金請求)」はただの1度も行われず、そのうえに実費分は今もって取られたままなのだから)。


私は、霞ヶ関の法務省・司法法制部にも直接訴えたが、司法法制部担当官は「弁護士会には『弁護士の自治』という法的特権があって、弁護士会およびその所属弁護士を指導・監督する官庁は、この国には存在しないのです。ですから、法務省としても、いかんともしがたい。まったくひどい弁護士にあたってしまわれて、たいへんお気の毒だとは思いますが、あなた(鳥居)がその弁護士を民事で訴えて裁判をされる以外に、法務省としてはもちろん、日本国としても、どうすることもできないのです」といわれた。


いまの私には、裁判をする経済力も体力もない。全て、その悪徳弁護士に奪われてしまったからだ。私の正義も、私の夢も、私の希望も、そして私の生活基盤も、全てがその悪徳弁護士に奪われてしまった。


民主主義国家における「法」は、市民共有の財産である。弁護士は、その市民共有の財産を商売道具として、金儲けをしているのであるから、市民に奉仕すべきである。公務員と同じである!


ギリシアの夢は、何度も、何度も見る。
そのたびに、悔しく、やり場のない「怒り」を感じ、涙が出てくる。


現状の大阪弁護士会は、社会悪だと思う。大阪弁護士会には浄化機能が全くない。だから、たったの半年間で10人以上もの所属弁護士が、立て続けに逮捕されるのだ(その罪状も、依頼者からの弁護士費用の横領やセクハラなどのくだらない罪ばかり)。大阪弁護士会は、日本一のダントツの悪の弁護士組織だ。「性欲と金欲」にまみれた悪徳弁護士の巣窟だ。悪の垂れ流し状態だ。大阪弁護士会所属弁護士は『弁護士の自治』という法的特権に守られて、現実社会からは、かけ離れたところで、世間知らずの、ぬくぬくと育てられた箱入娘のような、人の痛みのわからない弁護士が出来上がってきている。うまく口車にのせて信用させ、お金だけをとって、仕事をせずに、挙げ句の果てには、時効直前で一方的に契約を破棄するなどと、平気で依頼者を裏切り、依頼者の生活を破壊し、依頼者の夢も希望も何もかもをすべてを奪い去るような、詐欺まがいの事を平気で行う弁護士が、現実に出来上がってきているのだ(すべてがそうだとは言えないが)。


弁護士に限らず、法的特権を与えられている人間には、その法的制裁も、一般市民とは一線を画して、徹底的に厳しくすべきだ。


弁護士は、弁護士という社会的・法的特権を与えられている以上、その社会的・法的制裁も厳しくすべきである。市民と、このような詐欺まがいのトラブルを起こした弁護士には、有無を言わさず国家がその資格を永久剥奪し、市民権も一時停止とすべきである。このように厳しく社会的制裁を科すべきである。そのうえに所属弁護士会の会長も管理・監督責任を問われ、解任させるべきである。


やはり、政治を変え、弁護士会には政治のチカラでメスを入れて大手術をし、『弁護士の自治』なる悪の温床となっている、「監督官庁が存在しない」などという、一般常識からは考えられないような法的特権の病巣を全て取り除き、司法制度を健全化し、いまの社会の法秩序を、いっそう厳しく変えなければならないと感じる今日このごろだ。大阪弁護士会や法テラス大阪のような、腐りきった、浄化機能・浄化作用のまったくない弁護士組織に『弁護士の自治』などできるはずがないではないか!


私は、私の最後の望みを託して、社民党の国会議員さんに、もともとの私が被害を被った事件(民事事件)の資料および、詐欺を働いた悪徳弁護士と私とのやりとりに関する全ての資料を郵送させていただき、弁護士会(とくに大阪弁護士会)の、所属弁護士の不祥事・不法行為をかばい、躍起になってもみ消そうとする、腐りきった組織を一旦解体し、溜りに溜まった膿を出しきったあとで再構成すること。および悪徳弁護士については、市民からの苦情を受けて、国家が徹底した監視・調査・追及・告発ができるような制度・法の整備の実現をお願いしている。二度と、私のような悲劇を味わう人を出さないために。悪徳弁護士によって生活を破壊される人を出さないために。こんな悔しい思いは、もう私だけで充分だ。私で最後にしたい。そう祈っている。。。





欧州連合宗教政策諮問委員会/ギリシア民族宗教者最高評議会(Y.S.E.E.)
最高評議官  : 鳥居正宏



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戦争は「絶対悪」です。
武力とは「暴力」です。
戦争とは暴力による「大量殺戮」以外の何ものでもありません。
そもそも殺しあいに「正義」などは、
微塵も存在しないはずです。
「戦争をしない」ということこそが、唯一絶対の「正義」なのです。


しかし、時に、人間は大きな過ちを犯します。


私たち日本にとっては、先の大戦もその1つの例でしょう。いま私たちは、その過去の過ちの現実を、目をそらさずに真っ直ぐに見据え、徹底的に調査・検証し、そのうえで、しっかりと反省をして、犯してしまった過ちは「もう取り返しのつかないこと」と諦観して、誠意を持って補償・贖罪し、かつその経験を未来への指針として、具体的には、世界唯一の被曝国として、憲法9条を堅持する世界唯一の非戦・非武装の国として、世界平和のために、最大限の外交努力をもって貢献してゆくことこそが、きわめて重要な事であって、それは私たちが進歩・発展をし、世界平和を築いてゆく旗手となれる、現実的かつ、最もカッコイイ方法だと思います。


武力という、卑劣で粗暴で頭が悪くて野蛮な証拠である暴力にたよらずに、
言葉(LOGOS)のチカラだけで、すべてを解決してしまう。
ものすごく知性的でカッコイイですよねぇ。。。


「美しい国」よりも「知性輝く国」を目指しませんか?


翻って!
しかし!
しかしです!
「もう取り返しのつかないこと」
であっても、許せる事と、許せない事とがあります!


戦争を、原爆投下を、核兵器の使用を、そして被曝させられたことを、「しょうがない」などと容認する者は、そのような、人の痛みや悲しみ、苦しみを想像・理解できないような人間は、どこの国の誰であろうと、いますぐ「丸腰」で戦場の真っ只中へ立ってみなさい!


そうして恐怖を味わいながら撃ち殺されればいいのです。


そうすれば、広島・長崎をはじめとした、多くの戦争犠牲者である「市民」の、数億分の1ぐらいの恐怖と痛みは感じて死ぬことができるでしょう。その恐怖と痛みを感じて、それを容認した事への最期の反省をしなさい!


戦争を始めた国家の責任者たちは、国際刑事裁判所(ICC)の法廷の場において、きわめて迅速かつ合法的に終身刑の判決を下され、徹底的に断罪し尽くされなければなりません。そのためにも、ICC批准国の一刻も早い、全ての国への拡大を望んでやみません。


現在のICCは、最高刑を終身刑だと規定しています。それは最も理想的だと思います。戦争を開始した国家元首と閣僚およびその関係者、さらに政権政党幹部とその関係者などに対しては、地の果てまででも追いつめ、力ずくででも捕まえて、ICCの法廷に引きずり出し、無条件に即刻、合法的に終身刑を科すべきです。


そうなれば、もし戦争を始めれば、国家元首はもちろん、閣僚や政党幹部も、地の果てまででも追いかけられ、捕えられ、法廷に引きずり出されて終身刑を言い渡され、死ぬまで社会から隔離され、死ぬまで徹底的に断罪され続け、死ぬまで徹底的に贖罪し尽くさなければならなくなり、そして死後も歴史上には「戦争犯罪者・殺戮者」としての汚名を永遠にとどめることになります。


戦争という絶対悪を根絶するには、原因者およびその関係者を終身刑に処し、社会から隔離し、その社会的・政治的生命を完全に断ち切って抹殺し、そして彼らの命が尽きるまで、強制的にでも徹底的に厳しく、精神の極限にいたるまで反省と贖罪をさせるしか方法はないと思います。


現在のところ、ブッシュ大統領がその最有力候補となっています。EU諸国の多くの法学者は、ICCへブッシュを(そして、もしかしたらブレアも)告訴し、彼を終身刑に科そうと、いま調査・検討を進めています。ブッシュはこれを最も恐れ、死にもの狂いで、ありとあらゆる卑劣で卑怯な妨害工作を陰に陽に企てて実行しています(たとえば、国際連合経済社会理事会諮問機関/アムネスティ・インターナショナルによる報告 IOR 30/016/2004, POL 10/006/2005, IOR 40/009/2006 などで、そのブッシュの卑怯な工作の一部が暴露されています)。


その、うす汚くて卑怯・卑劣で臆病者の強がりブッシュに追随した者が、ブレアであり、我が国では、小泉純一郎であり、安部晋三なのです。そういえば、安部晋三の祖父である岸信介氏もかつてA級戦犯(すなわち殺戮者)として逮捕され、本来は処刑されるはずでしたよね(のちにGHQの気まぐれで釈放となりましたが)。


ICCという権威ある国際法廷を用いて、合法的に殺戮者たちの息の根をとめ、1つ1つその命脈に確実にトドメを刺して、戦争をしようという発想を根絶・殲滅してゆくしか、戦争を防ぐ方法はないと思います。


このことこそが、核兵器などを保有し、武力を増強し合って、互いに互いの恐怖感を煽りあう事よりも、よほど健全で、効果的・建設的かつ合法的な戦争の抑止力となるでしょう。


最後に、戦没者とそのご遺族の方々には、次の言葉を捧げたいと思います。



いま安らかに眠る、この土地ばかりが彼らにゆかりがあるのではない。彼らの英名は、末永く、我が国に思いを馳せる世界中の者の言葉にも、行動にも、折あるたびに、その記憶を新たにするであろう。


こう考えればこそ、私は、ここに集っている戦没者の遺族たちに、憐れみの言葉をあえて語るまい。ただ、ただ、平和であれ、平安であれと、誓いと鎮魂の祈りを心より捧げ伝えたい。


(B.C.430年にパルテノン神殿前で行われた、ペリクレス将軍の戦没者追悼演説より)







2007年8月6日
広島原爆忌に記す。
戦争に対する強い怒りと、戦没者に対する心からの祈りを込めて!


テーマ:戦争・原爆 - ジャンル:政治・経済

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パルテノン神殿
パルテノン神殿(B.C.432年完成)
※画像をクリックで拡大


私の特別に好きな詩があります。
この詩が、どれだけ私の心を救ってくれたでしょう。
この詩が、どれだけ私の心に光を与えてくれたことでしょう。


それは、いまから約2400年前。古代ギリシア・エーゲ海文明の時代。
その時代に生きたギリシア人の、セイキロスという名の男の人が石碑に刻んだ詩です。


********************************************************
(まえがき)
私は、石碑です。
セイキロスさんが、ここに建ててくれました。
不滅の想い出が、永く生き残る記(しるし)として。


(本文)
いのちある限りは、輝いていてくださいね。
あなたは、けっして、けっして、悲しんでいてはだめですよ。
生きている時間なんて、ほんのわずかなのですから。
時は、いつも、終わりに向かって進んでいるのですから。


(あとがき)
(欠損)セイキロスは.......
(欠損)生きた.......
********************************************************


「不滅の想い出」。。。セイキロスさんは、この詩に、どんな想いを託したのでしょうか。しかし彼のその想いを乗せたこの言葉(ロゴス)は不滅となって、はるか2400年もの時を超え、現在にまで確かに残りましたね。


人(というか、この世に生きとし生けるもの全て)の死亡率は 100 %です。例外なく、いつかは必ず死ななければなりません。この死亡率を 99 %にすること、すなわち、たったの 1 %ですら、それを減らすことは、不可能なのです。この不可能を可能にすることは、絶対に不可能なのです。


だからこそ、いのちある限りは輝いていて欲しいのです。
人々の心に残る、不滅の想い出を刻んで欲しいのです。


同じく古代ギリシアの歴史学者トゥキディディスは、次のような言葉を残しています。
「地に伏したる英雄のために、天空がベッドを運んでくる」


人は、いつ、どこで、どのように最期を迎えるか、わからない。ということを暗示していますね。もうひとつ、同時代にこんな有名な詩(通称「ラケダイモンの詩」)もあります。
「旅人よ。スパルタびと(人)に伝えてよ。勇敢に戦いし私、いまここに眠ると」


戦場で最期の時を迎えた、傷ついたスパルタ出身の兵士の、悲しみと切なさを見事に表現していますね。


これらの詩は、キリスト教よりもはるか以前の、古代ギリシア・エーゲ海文明に育まれた宗教(ギリシア神話、そしてパルテノン神殿に象徴される古代ギリシア多神教)における人生観・死生観を、ものの見事に美しく表現した詩だと思います。


それは、神々の加護によって、精一杯、力いっぱい、光輝くように生き抜き、そして最期には潔く静かに死を迎える。死に際しては、それを怖れず逆らわない。生も死もすべては自然のなせるわざ。神々の定めたもうた掟。という人生観・死生観です。


古代ギリシアでは、アリストテレスやプラトン、そして民主政の父(完成者)であるペリクレス将軍(この人がパルテノン神殿を創建した)、さらに、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王なども、この古代ギリシア多神教を信仰していました。


古代ギリシア人には、基本的には「死後」とか「あの世」や「来世」「天国」「地獄」そして「殉教」や「殉死」などといった概念はありませんでした。彼らは「死」についてはあまり関心を抱かず、彼らの生きている「現世」に最も重きを置いていました。つまり「いかに生きるか」ということに最大の価値を見い出していたのです。


古代ギリシア人は、その信仰の中では(一部のごく少数の例外を除いては)、人は亡くなれば、身も心も何もかもが自然の中へと溶け込んで、光となり、風となり、天空の大気の中へと消えて帰って行く。と考えていたようです。この考えかたは、いま世界中で大きな感動を呼んでいる、アイルランドの詠み人知らずの詩「千の風」(「千の風になって」の歌の原詩)と、ずいぶん似ていますね。


だからこそ「いのちある限り、輝きあれ!」なのです。


そうして彼ら古代ギリシア人は、私たち人類にとって輝かしい「不滅の想い出」を、たくさん残してくれました。


古代ギリシア文明の輝きは、いまでも政治面では、投票による議会制民主主義として(ただし古代では、代議士制ではなくて、全市民参加の直接議会民主制でしたが)、司法面では、法の整備・法の遵守と検察・弁護士制度、そして市民参加による裁判(市民投票による判決)として、経済面では、国家の管理下での銀行の運営による富の配分を行う貨幣経済として、文化面では、総大理石の輝く白亜の大神殿・パルテノンや、ミロのビーナス、そして定型の韻文詩や演劇、4年に1度開催されるオリンピック競技会などとして、学問では、ありとあらゆる全ての学問の根源として、いまに生きているのです。古代ギリシア文明の輝きは、まさに人類にとって不滅の想い出として、いまに生きているのです(このとき、日本では、縄文時代でした)。


いまから2500年〜2400年前(紀元前500年〜紀元前400年頃)、エーゲ海の恵みに育まれた古代ギリシア文明の時代は、文化人類学者や歴史学者は「人類史上奇跡の時代」「人類の最も輝ける青春時代」などと表現しています。


アリストテレスは言います。
「偉大なる思想は、偉大なる文明を育み、そして偉大なる文明は、偉大なる思想を育む」と。


古代ギリシアでは、この相乗効果が最高潮に達して最も良い方向に働き、その形而上学的(形として表現することのできない精神上のすべてのものごと)である思想や理念(哲学・論理学・宗教や精神文化)などを、形而下(形やしくみとして表現できるすべてのもの)に表現しようという人間の営みの、その叡智とエネルギーが、まさに絶頂の極みに達した時期であったと言われています。


その最も優れた遺産が、現代にまで受け継がれている民主主義であり、芸術的遺産としては人類の至宝、ミロのビーナスであり、パルテノン神殿であり、学問としては万学の祖アリストテレスやプラトンの学問等々なのです。


たとえば、パルテノン神殿は「奇跡の建築」「宇宙の縮図」そして「"完璧"というものを完璧に表現し得た、この世で唯一の存在」などと、古来から多くの芸術家や建築家、そしてとくに数学者と歴史学者・考古学者たちには絶賛され続けてきました。


考古学・歴史学におけるコンピュータ解析技術が発達するにつれ、パルテノンの建築理念の常識を覆すような超越性(たとえば、設計上のすべての寸法が黄金比率をもとに計算されているうえに、ただの1か所も直線を使っていないこと)などが、次々に発見されつづけています。パルテノン神殿は、美しくも不思議な建築です。まさに「宇宙の縮図」そのもの。ミロのビーナスや民主主義の発明などとあわせて「古代ギリシア文明の最高傑作」といえるでしょう。


そしてその後に生まれたキリスト教の文明も然り。かのバチカンの壮麗さは、人間が築いたものとは、とうてい思えませんね。まさに「天国」そのもの。「神の世界」そのもの。美の極致。また、ルネサンス期に建造されたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖マリア大聖堂)のドゥオーモ(英語で言うドーム)の美しさは、世界一だと言われています。


さらにイスラム文化も然り。仏教文化も然り。それぞれに輝かしい歴史と栄光の文化の輝きがあります。


翻って、いま、世界中で、宗教・宗派間の抗争と対立が絶えません。すべての宗教者は、それぞれの信仰が輝いていた文化・文明に思いを馳せて、互いに互いの宗教の文化を認めあい、尊敬しあいながら、それぞれの持つ、それぞれ独自の文化を謳歌して欲しいものです。


おのれの信仰の殻の中だけに閉じこもっていては、何の進歩・発展もないどころか、その殻の外にある信仰はすべて異端となり、邪教であり、邪宗であり、排除する結果となってしまうのです。そこには不信と断絶、怒りと憎しみの連鎖しか生まれません。


人の心というものは、無限の多面性を持っている測り知れない多面体のようなものだと思います。ですから、私は、人の信じる信仰にも、無限の多面性があって当然。多面性を持っている宗教、多面性を認め合う信仰こそが「自然」であり、本物の「信仰」ではないかと思っています。


私は、世界でもっとも古い宗教の1つである、古代ギリシア多神教(アリストテレスやプラトン、ペリクレス、アレキサンダー大王などと同じ、オリュンポス12神 ― それはギリシア神話でお馴染みの12人の神様たち ― への信仰)を継承し、信仰している1人の信仰者として、はるか後の時代に生まれたユダヤ・キリスト・イスラムなどの新しい一神教や、または、多神教であるはずの仏教のなかにあっても、特定の祖師やカリスマ的指導者とその組織活動だけに固執する信仰を持っている人たちに対しては、自己の信仰だけではなく、他者の信仰の文化と価値観をも認める大らかさ、そうした精神的な懐の深さを、自身の心の中に、自身の信仰の中に持って欲しい。そのことこそが「ほんとうの宗教心」だと言いたいのです。


私がこのブログの最初に書いた、私が最も好きな政治家である片山哲首相は、非常に敬虔なクリスチャンでした。また、私が最も尊敬する外交官である緒方貞子さんも、敬虔なクリスチャンだと伺っております。彼や彼女の生きかたの中に、私は、キリスト教精神・キリスト教文明の輝きを感じます。また、私の友人は、石橋湛山首相が好きだと言います。石橋首相も人道主義者であり、平和主義者でした。そして彼は僧侶のご子息で、自身も政界引退後には出家をされています。私は、石橋首相の中には、仏教文化の精神・仏教文化の輝きを感じています。


なにも特定の宗教を信仰する「信仰心」を持つ必要はないと思います。信仰するもしないも、または何をどのように信仰するも、それは完全なる個人の自由なのですから。


しかし、他者の信仰を尊重し、その宗教の文化を尊敬する「宗教心」は、人種・民族・国籍・言語・宗教・宗旨・宗派・信仰の壁を超越する、非常に大切な「心」だと思うのです。


ですから私は、自己の信仰だけにこだわる「信仰心」よりも、多面性をもって他の信仰の価値観をも尊敬し認め合う「宗教心」のほうが、何百倍・何千倍もの価値ある「心」だと思っています。


なぜならその「心」こそが、世界中の宗教紛争・宗教対立を解決でき、宗教・宗旨・宗派・信仰の違いによって生じる全ての対立と争いの、不信と怒りと憎しみと悲しみの連鎖を断ち切る、唯一かつ最も効果的な方法だと信じているからです。


私たち1人1人が、私たちの子や孫のために、非戦・非武装を誓い、平和を守り、人々が「いのちある限り輝ける社会」、人々が「いのちある限り輝ける世界」を創ってゆかなければいけませんね。


最後に。。。
『国連ユネスコ憲章』は、次の言葉ではじまります。
「戦争は、人の心の中に生まれるものだから、人の心の中に、平和の砦を築かなければいけない」(了)



【参考とした文献】
1.Jon.D.Mikalson『古典期アテナイ民衆の宗教』 2004
2.Mircea Eliade『世界宗教史』第2巻 筑摩書房 2000
3. Thomas Cahill『ギリシア人が来た道』青土社 2005
4. ニーチェ『古典ギリシアの精神』筑摩書房 2001
5.水地宗明『アリストテレスの神論』晃洋書房 2004
6.ペテルス・ニコラウス羅訳『アリストテレスの神学』 堀江聡 訳 2006




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