
パルテノン神殿(B.C.432年完成)
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私の特別に好きな詩があります。
この詩が、どれだけ私の心を救ってくれたでしょう。
この詩が、どれだけ私の心に光を与えてくれたことでしょう。
それは、いまから約2400年前。古代ギリシア・エーゲ海文明の時代。
その時代に生きたギリシア人の、セイキロスという名の男の人が石碑に刻んだ詩です。
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(まえがき)
私は、石碑です。
セイキロスさんが、ここに建ててくれました。
不滅の想い出が、永く生き残る記(しるし)として。
(本文)
いのちある限りは、輝いていてくださいね。
あなたは、けっして、けっして、悲しんでいてはだめですよ。
生きている時間なんて、ほんのわずかなのですから。
時は、いつも、終わりに向かって進んでいるのですから。
(あとがき)
(欠損)セイキロスは.......
(欠損)生きた.......
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「不滅の想い出」。。。セイキロスさんは、この詩に、どんな想いを託したのでしょうか。しかし彼のその想いを乗せたこの言葉(ロゴス)は不滅となって、はるか2400年もの時を超え、現在にまで確かに残りましたね。
人(というか、この世に生きとし生けるもの全て)の死亡率は 100 %です。例外なく、いつかは必ず死ななければなりません。この死亡率を 99 %にすること、すなわち、たったの 1 %ですら、それを減らすことは、不可能なのです。この不可能を可能にすることは、絶対に不可能なのです。
だからこそ、いのちある限りは輝いていて欲しいのです。
人々の心に残る、不滅の想い出を刻んで欲しいのです。
同じく古代ギリシアの歴史学者トゥキディディスは、次のような言葉を残しています。
「地に伏したる英雄のために、天空がベッドを運んでくる」
人は、いつ、どこで、どのように最期を迎えるか、わからない。ということを暗示していますね。もうひとつ、同時代にこんな有名な詩(通称「ラケダイモンの詩」)もあります。
「旅人よ。スパルタびと(人)に伝えてよ。勇敢に戦いし私、いまここに眠ると」
戦場で最期の時を迎えた、傷ついたスパルタ出身の兵士の、悲しみと切なさを見事に表現していますね。
これらの詩は、キリスト教よりもはるか以前の、古代ギリシア・エーゲ海文明に育まれた宗教(ギリシア神話、そしてパルテノン神殿に象徴される古代ギリシア多神教)における人生観・死生観を、ものの見事に美しく表現した詩だと思います。
それは、神々の加護によって、精一杯、力いっぱい、光輝くように生き抜き、そして最期には潔く静かに死を迎える。死に際しては、それを怖れず逆らわない。生も死もすべては自然のなせるわざ。神々の定めたもうた掟。という人生観・死生観です。
古代ギリシアでは、アリストテレスやプラトン、そして民主政の父(完成者)であるペリクレス将軍(この人がパルテノン神殿を創建した)、さらに、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王なども、この古代ギリシア多神教を信仰していました。
古代ギリシア人には、基本的には「死後」とか「あの世」や「来世」「天国」「地獄」そして「殉教」や「殉死」などといった概念はありませんでした。彼らは「死」についてはあまり関心を抱かず、彼らの生きている「現世」に最も重きを置いていました。つまり「いかに生きるか」ということに最大の価値を見い出していたのです。
古代ギリシア人は、その信仰の中では(一部のごく少数の例外を除いては)、人は亡くなれば、身も心も何もかもが自然の中へと溶け込んで、光となり、風となり、天空の大気の中へと消えて帰って行く。と考えていたようです。この考えかたは、いま世界中で大きな感動を呼んでいる、アイルランドの詠み人知らずの詩「千の風」(「千の風になって」の歌の原詩)と、ずいぶん似ていますね。
だからこそ「いのちある限り、輝きあれ!」なのです。
そうして彼ら古代ギリシア人は、私たち人類にとって輝かしい「不滅の想い出」を、たくさん残してくれました。
古代ギリシア文明の輝きは、いまでも政治面では、投票による議会制民主主義として(ただし古代では、代議士制ではなくて、全市民参加の直接議会民主制でしたが)、司法面では、法の整備・法の遵守と検察・弁護士制度、そして市民参加による裁判(市民投票による判決)として、経済面では、国家の管理下での銀行の運営による富の配分を行う貨幣経済として、文化面では、総大理石の輝く白亜の大神殿・パルテノンや、ミロのビーナス、そして定型の韻文詩や演劇、4年に1度開催されるオリンピック競技会などとして、学問では、ありとあらゆる全ての学問の根源として、いまに生きているのです。古代ギリシア文明の輝きは、まさに人類にとって不滅の想い出として、いまに生きているのです(このとき、日本では、縄文時代でした)。
いまから2500年〜2400年前(紀元前500年〜紀元前400年頃)、エーゲ海の恵みに育まれた古代ギリシア文明の時代は、文化人類学者や歴史学者は「人類史上奇跡の時代」「人類の最も輝ける青春時代」などと表現しています。
アリストテレスは言います。
「偉大なる思想は、偉大なる文明を育み、そして偉大なる文明は、偉大なる思想を育む」と。
古代ギリシアでは、この相乗効果が最高潮に達して最も良い方向に働き、その形而上学的(形として表現することのできない精神上のすべてのものごと)である思想や理念(哲学・論理学・宗教や精神文化)などを、形而下(形やしくみとして表現できるすべてのもの)に表現しようという人間の営みの、その叡智とエネルギーが、まさに絶頂の極みに達した時期であったと言われています。
その最も優れた遺産が、現代にまで受け継がれている民主主義であり、芸術的遺産としては人類の至宝、ミロのビーナスであり、パルテノン神殿であり、学問としては万学の祖アリストテレスやプラトンの学問等々なのです。
たとえば、パルテノン神殿は「奇跡の建築」「宇宙の縮図」そして「"完璧"というものを完璧に表現し得た、この世で唯一の存在」などと、古来から多くの芸術家や建築家、そしてとくに数学者と歴史学者・考古学者たちには絶賛され続けてきました。
考古学・歴史学におけるコンピュータ解析技術が発達するにつれ、パルテノンの建築理念の常識を覆すような超越性(たとえば、設計上のすべての寸法が黄金比率をもとに計算されているうえに、ただの1か所も直線を使っていないこと)などが、次々に発見されつづけています。パルテノン神殿は、美しくも不思議な建築です。まさに「宇宙の縮図」そのもの。ミロのビーナスや民主主義の発明などとあわせて「古代ギリシア文明の最高傑作」といえるでしょう。
そしてその後に生まれたキリスト教の文明も然り。かのバチカンの壮麗さは、人間が築いたものとは、とうてい思えませんね。まさに「天国」そのもの。「神の世界」そのもの。美の極致。また、ルネサンス期に建造されたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖マリア大聖堂)のドゥオーモ(英語で言うドーム)の美しさは、世界一だと言われています。
さらにイスラム文化も然り。仏教文化も然り。それぞれに輝かしい歴史と栄光の文化の輝きがあります。
翻って、いま、世界中で、宗教・宗派間の抗争と対立が絶えません。すべての宗教者は、それぞれの信仰が輝いていた文化・文明に思いを馳せて、互いに互いの宗教の文化を認めあい、尊敬しあいながら、それぞれの持つ、それぞれ独自の文化を謳歌して欲しいものです。
おのれの信仰の殻の中だけに閉じこもっていては、何の進歩・発展もないどころか、その殻の外にある信仰はすべて異端となり、邪教であり、邪宗であり、排除する結果となってしまうのです。そこには不信と断絶、怒りと憎しみの連鎖しか生まれません。
人の心というものは、無限の多面性を持っている測り知れない多面体のようなものだと思います。ですから、私は、人の信じる信仰にも、無限の多面性があって当然。多面性を持っている宗教、多面性を認め合う信仰こそが「自然」であり、本物の「信仰」ではないかと思っています。
私は、世界でもっとも古い宗教の1つである、古代ギリシア多神教(アリストテレスやプラトン、ペリクレス、アレキサンダー大王などと同じ、オリュンポス12神 ― それはギリシア神話でお馴染みの12人の神様たち ― への信仰)を継承し、信仰している1人の信仰者として、はるか後の時代に生まれたユダヤ・キリスト・イスラムなどの新しい一神教や、または、多神教であるはずの仏教のなかにあっても、特定の祖師やカリスマ的指導者とその組織活動だけに固執する信仰を持っている人たちに対しては、自己の信仰だけではなく、他者の信仰の文化と価値観をも認める大らかさ、そうした精神的な懐の深さを、自身の心の中に、自身の信仰の中に持って欲しい。そのことこそが「ほんとうの宗教心」だと言いたいのです。
私がこのブログの最初に書いた、私が最も好きな政治家である片山哲首相は、非常に敬虔なクリスチャンでした。また、私が最も尊敬する外交官である緒方貞子さんも、敬虔なクリスチャンだと伺っております。彼や彼女の生きかたの中に、私は、キリスト教精神・キリスト教文明の輝きを感じます。また、私の友人は、石橋湛山首相が好きだと言います。石橋首相も人道主義者であり、平和主義者でした。そして彼は僧侶のご子息で、自身も政界引退後には出家をされています。私は、石橋首相の中には、仏教文化の精神・仏教文化の輝きを感じています。
なにも特定の宗教を信仰する「信仰心」を持つ必要はないと思います。信仰するもしないも、または何をどのように信仰するも、それは完全なる個人の自由なのですから。
しかし、他者の信仰を尊重し、その宗教の文化を尊敬する「宗教心」は、人種・民族・国籍・言語・宗教・宗旨・宗派・信仰の壁を超越する、非常に大切な「心」だと思うのです。
ですから私は、自己の信仰だけにこだわる「信仰心」よりも、多面性をもって他の信仰の価値観をも尊敬し認め合う「宗教心」のほうが、何百倍・何千倍もの価値ある「心」だと思っています。
なぜならその「心」こそが、世界中の宗教紛争・宗教対立を解決でき、宗教・宗旨・宗派・信仰の違いによって生じる全ての対立と争いの、不信と怒りと憎しみと悲しみの連鎖を断ち切る、唯一かつ最も効果的な方法だと信じているからです。
私たち1人1人が、私たちの子や孫のために、非戦・非武装を誓い、平和を守り、人々が「いのちある限り輝ける社会」、人々が「いのちある限り輝ける世界」を創ってゆかなければいけませんね。
最後に。。。
『国連ユネスコ憲章』は、次の言葉ではじまります。
「戦争は、人の心の中に生まれるものだから、人の心の中に、平和の砦を築かなければいけない」(了)
【参考とした文献】
1.Jon.D.Mikalson『古典期アテナイ民衆の宗教』 2004
2.Mircea Eliade『世界宗教史』第2巻 筑摩書房 2000
3. Thomas Cahill『ギリシア人が来た道』青土社 2005
4. ニーチェ『古典ギリシアの精神』筑摩書房 2001
5.水地宗明『アリストテレスの神論』晃洋書房 2004
6.ペテルス・ニコラウス羅訳『アリストテレスの神学』 堀江聡 訳 2006
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