死刑制度存廃国の現状
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【2007年度調べ】
法律上死刑を廃止している国・・・100カ国
事実上死刑を廃止している国・・・30カ国
2006年度中に死刑を執行した国・・・25カ国
◎経済先進国で死刑制度を保持している国・・・日本と米国のみ
◎EU加盟条件のなかには「死刑制度を保持していないこと」とある
(国際連合経済社会理事会の調査報告に拠る)
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みなさん。いっしょにすこし考えてみましょう。。。
死刑を受ける側の人も、まちがいなく、人の子です。
考えてみてください。 この世に生を受けた時点では、全ての人の命は、その重さ、その尊さ、その尊厳には、何ら差はなく、森羅万象全てに対して、絶対的な価値のある、平等不可侵の存在であるはずです。
その後、その人がどのような人生を歩むかによって、その時代時代の社会的な通念や価値観によって、または、国、地方、民族、地域的な事情等によって、相対的に、善悪などの価値判断が行われ、定められた「法」によって、あくまでも相対的に、その人の人生の歩み、そのプロセスが裁かれるわけです。
ですから、「法」は時代時代によって必ず変化するものであり、したがって、その「法」によって裁かれる人の罪の重さも、必ず、時代時代によって、または社会的状況や地域、国々によって、必ず変化(違い)のあるものです。
このことから、定められた「法」はけっして絶対的なものではなく、その時々の社会の価値観などによって、相対的に、歴史的に、必ず変化してゆく、極めて不安定な判断基準なのです。
それは、いま、この瞬間の現象だけを捉えていては、なかなか理解できないかもしれませんが、千年・二千年という、長い時間の単位で、「法」とそれによって裁かれる「罪」、その結果もたらされる「罰(ペナルティ)」というものを捉えれば、「法」が極めて相対的で不安定で、浮遊した価値観であることは、誰にでも、容易に理解できるものであると思います。
例えば戦国時代には、敵を殺すのは名誉でした。しかしいま、自分の敵を殺せば、どのような理由があるにせよ、それは間違いなく殺人罪です。でも、これまでの戦争では、大量殺戮をおこなってきた張本人である1人1人の兵士は、いまだに罪には問われていません。その手で強奪・略奪を繰り返し、数えきれない程の人間を強姦・暴行し、残虐卑劣きわまりない手段で惨殺しておきながら、それらの行為は、それをおこなった兵士「個人」に対しては、現在、その全てが国家によって免責され、なにひとつとして罪に問うていないのです(罪に問うことは不可能なのです)。
このように、その時々によって、同じ事をしても(結果的な事実として、例えば人を殺しても)、時代背景や国家の都合などの事情によっては、法によって裁かれたり、裁かれなかったりするのです。現在、法とは、このように事情によって(場当たり的に)都合よく免責をおこなうような、それほど曖昧な概念(価値観)なのです。このようなことは、歴史を学べば、容易に理解できるはずです。
しかし、だからといって「法」を軽視してはなりません。「法」は絶対的に遵守しなければならないものです。それは、現時点(歴史的な判断ではなく)では「法」は絶対的な善悪の判断基準であり、その「法」によって、社会の安寧秩序が維持されているという、歴とした現実があるからです。
しかし、歴史の流れという視点で観れば、上述のように、歴史という絶対的な時間軸に対しては、極めて曖昧で不安定で相対的な「法」に対して、絶対的に不偏不滅の存在・価値観が、生命の尊厳であるといえるでしょう。
考えてください。それは、千年前、二千年前、あるいは百万年前においても、そして千年先、二千年先、百万年先の未来においても、「生まれてくる命」の尊さには変わりはありません。変わりがあっては、ならないはずです。
そして、その生命の尊厳を絶対的に保障し、全ての人が、あまねく享受することのできる最も崇高なる理念、すなわち、この世で唯一、生命と人間存在そのものを、絶対的かつ平等に保障する権利、それが「人権」なのです。
人が生きる権利すなわち「人権」「生存権」は、人が生まれながらに授かっている天賦の権利であり、このような「生まれながらに授かっている権利」のことを「自然権」といいます。
そして、人類がその歴史のなかで、社会を構成して行くにつれて、その社会秩序を保つべく、いろいろな法律や権利が制定されます。このように、あとから制定された法律や権利を「社会権」といいます(この時、自然権は社会権の中に組み込まれるという学説もあります)。
そして、近代法の2つの根本原則は「権利を奪う権利はない(権利を奪う法は存在してはならない)」そして「社会権は自然権を侵害できない」という原則です。
この「自然権不可侵の原則」は、王権神授説を否定し、近代民主主義を形成する根本理念ともなっています。
ですから、近代法治国家、民主主義国家であるならば、いかなる法律も「人が生きる権利」を奪うことはできないのです。
それから、死刑制度は、犯罪の抑止力にはなりません。それは、死刑制度を維持しているアメリカこそが、世界一の凶悪犯罪大国であり、銃社会。すなわち「銃」という武器を用いてしか自らの安全を守れないようなところにまで、社会が腐敗・堕落し切ってしまっているのです。
その反面、死刑制度を持っていない欧州諸国では、治安が比較的安定し、凶悪犯罪も少ない。
すなわち、死刑制度というのは、近代法・民主主義に真っ向から反する制度であり、その制度自体は、犯罪の抑止力にはなっていない、何らの社会的意義も持っていない制度なのです。
何らの社会的意義も持たないこの死刑制度によって、「国家」が人を殺してしまうのは、未開の野蛮国家、非文明国家だといわざるを得ないでしょう。
死刑制度の維持は、このように法的根拠はなく、また社会的意義もなく、単なる国民の「感情」でしかないのです。
単なる感情論で、国家が国民を殺す法律を維持しているということは、やはり、その国家は、もはや近代法治国家ではなく、民主主義国家でもありません。
それは未開の野蛮な「民族のクニ」での「オキテ」程度のものか、もしくは国家そのものが「暴君」と化した、「恐怖政治」だといわざるを得ないでしょう。
死刑という「制度」については、上記のように、「国家論」「社会論」で論じなければなりません。単なる「感情論」だけにこだわっていては、わたしたちの社会は、まったく進歩はなく、真の近代法治国家、真の民主主義国家へと成長してゆくことはできないでしょう。
死刑制度は、近代法(近代民主主義国家における法制度)を構成する2つの根本原則に2つとも、真っ向から反しているのですから。
私も、もし私の肉親や友人が誰かに殺されたりしたら、その犯人を「この手で殺してやりたい」と間違いなくそう思うはずです。
しかし、その思いを「国家」が「法」によって代行してはいけません。法は、人間の感情をはるかに超えて、社会秩序維持(社会権の擁護)と人間存在の肯定(自然権の擁護)のために存在しているのですから。
法には、人間の感情をはるかに超えた「理性」が求められるのです。
私は、死刑廃止論者ですが、即刻廃止すべきだとの急進的な考えは持っていません。とりあえず、死刑の執行を停止して、みんなでじっくり考えてみましょう。EU諸国をお手本にして、10年か20年ぐらいかけて、国民で議論しましょう。その間、とりあえず死刑執行は停止しておきましょう。という考えを持っています。民主主義社会では、市民の同意がなによりも重要です。
また、私は、死刑を廃止するかわりに、何らかのてだては必要だと思っています。欧州のごとく終身刑を導入するか、または、無期懲役などという曖昧な刑罰も死刑と同時に廃止して、懲役50年とか70年などという実質的な長期の懲役刑を制定するか。
そして、死刑は「例外的には」残しても良いとも考えています。その「例外」というのは、国家の存亡にかかわるような重大犯罪(具体的には、国家機密を外国に売ったり、外国に戦争を仕掛けたり、逆に外国から戦争を仕掛けられるように仕向けたりした場合)。基本的には最高刑は終身刑(または長期の有期刑)として、国家の存亡にかかわるような、極めて重大な犯罪にのみ死刑を適用するというのも、ひとつの方法ではないでしょうか?
さて、「人権とはなんぞや」と定義づけるのはたいへん難しいと思いますが、私は、人権とは、
「人として生きること」
「人として生きようとすること」
「人として、明日も生きていたいと願うこと」
であると解釈しています。 そしてそれは、何人にも、どのような力にも侵されてはならない、不滅の天賦の権利であると、理解しています。
ですから、それを侵そうとする存在は、たとえどのようなものであっても、絶対に見過ごしてはならない、黙認してはならない、許してはならないと思います。生命の尊厳に対する冒涜は、許されてはならないはずです。
絶対的な価値観であり、不滅の天賦の権利である「人権」、言い替えれば「生命の尊厳」「生きる権利」を、たとえその生命の保持者が、どのような人生を歩んで来たとしても、どのような罪を侵したとしても、先にも述べたように、不安定な価値観である「法」なるもので裁き、国家権力によって、その尊厳を抹殺してしまう行為は、それはまさしく、生命に対する冒涜以外のなにものでもないと考えます。
罪を侵した者には、絶対にペナルティは必要です。懺悔と反省と贖罪と更正の機会は、強制的にでも、そして徹底して科さなければなりません。しかし、社会的な価値観によって相対的に存在する「法」によって、不偏不滅の絶対的価値観である「生命の尊厳」「命そのもの」を裁くことは絶対にできない、絶対にしてはならない筈です。
裁かれなければならないのは「罪」であり、裁かれる側の人が歩んできた「プロセス」であるはずです。どのような事があっても、私たちは絶対に「命」そのものを裁くことはできないはずです。
例外なく、人には、他人の命を裁く権利は、絶対に与えられていません。私たちに他の人の「命」を裁くだけの、資格が、どこにあるというのでしょうか?
人間として、私たち1人1人は、他人の命を裁き、それを奪うことができる程の存在なのでしょうか?
すなわち、立場を逆に捉えれば、私たち1人1人は、いつでも他人から、自由にその命を裁かれ、奪われる権利を、私たち自身によって「法」で定めているという事なのでしょうか?
「法」とは、私たちが私たちを護るために取り決めた、便宜上の「決まり」であるから、私たちに、人の命を裁き、奪うことができる資格(権利)がなければ、すなわち、私たちに、人から命を裁かれ、奪われることを保障するような資格(権利)がなければ、そのような「法(死刑制度を規定した法)」が存在する事じたいが、矛盾であり、それは私たちの自身の生命そのものの存在価値を全否定しているものであり、すなわちその「法」そのものの存在じたいが、私たちにとっては究極の愚行であり、自殺行為そのものであると言えます。
原始人や未開人の集団での「オキテ」ならいざ知らず、近代法治国家・近代民主主義国家においては、その国家の「法」、すなわち私たち1人1人の総意によって民主的に取り決められたはずの「法」が、それを取り決めたはずの主体者である、私たちの命を裁き、奪い去るという自己矛盾を孕んでいることは、何ともおかしな現象であり、そのような「法」を擁する国家は、真の近代法治国家・真の近代民主主義国家とは言えません。
死刑制度を廃止した国々、とくに古くから民主主義が成熟してきた欧州の諸国は、そのことに気がついたのです。
私たち人間は、絶対に、命そのものを裁いては、なりません!
人が定めた法によって、人の命を裁く行為は、私たち自身が、私たち自身の生命の尊厳を犯していることであり、それは生命に対する明らかなる冒涜行為であり、まさしく自らの存在そのものをも全否定する行為であり、すなわち、それは天に唾するに等しい行為であるのです。
「法」の理想は、「正義」の実現でありましょう。しかし、いかなる状況にあっても、いかなる理由があっても、その「正義」という名のもとにおいて人の命を奪い去る行為は、「正義」に名を借りた「悪」の行為そのものであり、それは「正義」の名を借りていることによって、「正義」に対する冒涜以外の何ものでもなく、そこには真実の「正義」のひとかけらも存在し得ないのです。
何びとにも与えられている、天賦の権利、
「人として生きること」
「人として生きようとすること」
「人として、明日も生きていたいと願うこと」
死刑は、その人権を侵害する、残虐・卑劣な制度です。
最も深刻な「人権侵害」です。
もし、死刑が執行されてしまってから、それが冤罪だったとわかって、あとから真犯人が出てきた場合に、国家はどうつぐなうのでしょうか?
何億・何兆というお金を積んだところで、いちど国家がその強大なる国家権力によって奪い去った命は戻りません。「まちがいでした」では済みません!
米国では、1976年以来処刑された1000人以上の人の中で冤罪によって死刑が執行され、あとから真犯人が見つかった例が少なくとも8件はあるという、米国の人権団体(Death Penalty Information Center)による、国連へ提出された信頼できる調査報告があります。その報告はきわめて正確なもので、国連経済社会理事会の資料となっています。
ですから私は、日本においても、あと10年か20年くらいの間論議を尽くした上で(その間は、とりあえず死刑の執行は中止しておいて)、我が国も欧州諸国のように「真の近代法治国家として」成長することによって、死刑制度の廃止を願い、そして生命そのものを裁くことのない、死刑にかわる終身刑もしくは長期の有期刑などの導入を強く支持します。
欧州連合(EU)宗教政策諮問委員会/Y.S.E.E. 最高評議官
鳥居正宏
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