先日、ちょっと感激した論説に出会ったので、その冒頭部分だけをここに紹介させていただきます(著作権法の関係で全文引用できません)。
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2006年9月30日、アイスランドから米軍が撤退し、ケフラヴィク海軍航空基地が閉鎖された。約1,200人の米兵やその家族が引き揚げた。撤退は世界規模で進む米軍再編の一貫である。アイスランドは国軍を保有していないので完全な非武装国家になった。米軍撤退後の軍隊創設も否定している。跡地の民間利用によって地元経済の発展をめざす。約7,000人の基地労働者の再就職は政府が斡旋した。
(出典 : 前田 朗 「旅する平和学」 『月刊 社会民主』 2008年1月号)
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ここに、憲法第9条を擁する我が国の進むべき道が、明確に示されているのではないでしょうか。(了)
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【全文転送・転載・メール通知大歓迎です!】
朗報をご報告申し上げます。
去る2007年12月13日の記事 :
◎「【緊急抗議要請】 和歌山の紀陽銀行が生活保護受給者を差別・人権侵害」
http://tokidokilogos.blog109.fc2.com/blog-entry-74.html
について、先ほど友人から連絡があり、本日、簡易裁判所にて、紀陽銀行・紀陽カードとの調停が成立したとのことです。
その内容は、当初、紀陽銀行が友人に利息付での返済を強硬に迫っていた金額に対して、約4分の1の金額で、しかも利息なしでの返済ということに決定いたしました。
これも、ひとえに、みなさまからの援護射撃(抗議行動)のおかげです。見事なる勝利です。
これで、その友人も生活の再建ができると、電話口で泣きながら喜んでおりました。
応援・ご協力いただきましたみなさまに、心から感謝を申し上げます。
ほんとうに、ほんとうにありがとうございました。
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昨日(2008年1月27日)、投開票された大阪府知事選挙で、自・公推薦の橋下徹氏が当選した。
いたしかたあるまい。彼が知事となった以上、私も一府民(大阪市民なのだが、両親は大阪府下の衛星都市に住んでいる)として、彼の若さのエネルギーによるこれからの府政改革に期待し、良いと思うところには、力惜しまず協力するとともに、悪いと思った部分に関しては、厳しい目で提言をしてゆきたい。
しかし、なぜ彼のような、失言・妄言癖のある問題児が知事となってしまったのだろうか。2万パーセント出馬しないのではなかったのか?
大阪府民は、もう少し理性あるものと信じていた。
やはり、公明党・創価学会の存在が大きい。大阪(そのなかでも特に京阪地域)は、日本一創価学会勢力の強い地域だ(彼らはみずから「常勝関西」と豪語している。大阪市長選では負けたので今度はどうしても橋下氏を勝たせたかったようだ)。
そして、創価学会員は、盲目的に公明党を信奉している。彼らの思考停止したこの行動様式、彼らの存在が、この国に数々の政治的不信・不幸・格差を招いているといっても過言ではない。
特定の巨大宗教団体が政治政党を所有し、それを盲目的に支持する強烈な政治的活動(組織を挙げての選挙運動)には大きな問題がある。政教分離の原則から見ても、大きな問題を抱えている。憲法違反の可能性すらある。
やはりこの問題は、国会の場で、創価学会の池田大作名誉会長と、公明党の太田代表を証人喚問し、創価学会と公明党との関係性、即ち、きっちりと政教分離がなされているのか(ではなぜ、宗教団体である創価学会は、ありとあらゆる選挙のたびに、組織を挙げて公明党を支持し得票のためにチマナコになっているのか)、創価学会の持っている巨額の資金は公明党には流れていないのか、徹底的に解明するべきであると思う。
再び、有志連合で、野党各党にこのことを申し入れてみたい。
私が創価学会と公明党の問題について触れるたびに、嫌がらせや脅迫まがいのコメントが寄せられてくる。公表はしませんが。
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これから、2つの憲法の条文と、2つの憲章の前文を紹介します。
まず、中米・コスタリカの憲法。
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『コスタリカ共和国憲法』(1948年施行)
第12条
恒久制度としての軍隊は廃止する。公共秩序の監視と維持のために必要な警察力は保持する。
大陸間協定により又は国防のためにのみ、軍隊を組織することができる。いずれの場合も文民権力に常に従属し、単独又は共同して、審議することも声明又は宣言を出すこともできない。
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そしてお馴染みの我が『日本国憲法』。
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『日本国憲法』(1947年施行)
第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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コスタリカでは、たび重なる激しい内戦の反省から『日本国憲法』より1年後に、常設の軍隊を廃止すると「憲法」で明確に定め、そのとおり、永世中立国宣言をして、現在も常備軍は保持していません。ただし国防のためにのみ軍隊を編成することはできますが、これも上記第12条第2項の規定により、文民支配下でのみ行動を許されると、その行動を厳しく徹底して制限しています。
これは、我が『日本国憲法』第9条よりもさらに具体的に踏み込んだ規定となっていると言えるでしょう。
しかし我が『日本国憲法』においても、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明確に規定していることは、周知の事実です。
この『コスタリカ共和国憲法』第12条も『日本国憲法』第9条も、どちらも戦争の惨劇、軍隊という国家権力による暴力組織の凄まじい蛮行からの深い反省にたって定められたものです。
私たち日本人の立場からみれば、『コスタリカ共和国憲法』第12条は、第2の『日本国憲法』第9条と言えるでしょう。
次に『国連憲章』の前文。
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『国際連合憲章』(1945年10月24日 効力発生)
われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、
基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、
正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、
一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること、並びに、このために、
寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、
国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、
共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
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そして『日本国憲法』の前文。
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『日本国憲法』(1947年施行)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓ふ。
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これら2つの憲法の条文と2つの憲章の前文には、共通する精神を読み取ることができるのではないでしょうか?
すなわち、戦争の惨劇を深く反省し、二度と戦争は起こさないという強い決意。
そしてコスタリカの憲法の条文と国連憲章ともに、我らが『日本国憲法』の精神が存在しているということは、まさに日本国が「国際社会において、名誉ある地位を占め」ていると言えるでしょう。
この我らが『日本国憲法』から、9条などを改め、日本が再び戦争をする国になってしまうことは、「国際社会において、名誉ある地位」を放棄する愚行なのではないでしょうか?
現政府や改憲派の言う「普通の国」とは、アメリカなどを意識してのことなのでしょう。しかし、アメリカは、建国からの歴史が浅い新興国であるにもかかわらず、歴史上もっとも多くの人間を殺してきた(いまも殺し続けている)国であり、世界一の犯罪大国であり、世界一の銃が氾濫している社会、すなわち「銃を使用する」という、世界一の暴力に満ち溢れた社会です(そして日本も徐々にそうなってきていますよね)。
私は、これが「普通の国」だとは到底思えません。どう考えても「狂気の国」「狂いきってしまった社会」にしか見えません。
1940年代後半に世界中が戦争の惨劇を深く反省し、二度と戦争は起こさないという強い決意を示した、その反省と決意を、私たちは永久に、これを忘れてはなりません。(了)
【参考とした文献】
1. 土井たか子・佐高信 『護憲派の一分』 角川書店 2007
2.『六法全書』 三修社 2002
3.『解説 条約集』 三省堂 2003
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私は、いつもは大阪市内を地下鉄で移動しているのですが、きょうは出かけた帰りに、久々に市営バスに乗りました。何年ぶりでしょう、市バスに乗るのは。
ちょうど、バスターミナルと地下鉄・私鉄の駅とが一体となっているところで、いつもは何の躊躇もなく地下へと階段を降りるのですが(バスは1時間に4本しかないので、なかなかタイミングが合わないのです)、たまたまバスターミナルのほうに目をやると、ちょうど、うちの近くのバス停に停まるバスが客待ちをしていたところでした。
そこで、きょうは地下へ3つもの階段を降りるのは面倒だと思い、久々にバスで帰ることにしたのです。
そのバスは、ターミナル駅からの始発ということもあって(それにそのバスの発車時刻までには、まだ5分ほどあったということもあって)、車内はガラガラの状態で、私は一番前(運転席のすぐ後ろ)に着席しました。
次第にお客さんが乗ってきて満席となり、そして立っている人もでてきました。
「こんなに地下鉄網の発達している大阪市内でも、まだ市バスを利用する人もたくさんいるんだなぁ」
などと思っていました。そうこうしているうちに、いよいよ発車。バスは大阪市内の幹線道路を快調に走っています。
その時、ふと気づきました。運転席からの見晴らしが、とてもいいのです。運転士さんの膝ちかくまで、バスの前面が一枚ガラスなのです。
そこで、ちょっと嫌な想像をしてしまいました。
「もし、このバスが、正面から何かにぶつかったとき、または、相手からぶつかってこられたとき、運転士さんはガラスを全身に浴びるだろうなぁ。それに、もしかしたら、下半身がバスの前部と運転席の椅子の間に挟まれて、たいへんな事態になるかも」
と。私が子どもの頃(幼稚園から小学校低学年頃)までは、運転席の前に長いボンネットのついたバスも普通によく見かけました(もちろん、ボンネットのないバスもありましたが)。1960年代後半から70年代初頭というのは、ボンネットのあるバスから、ないバスへのちょうど過渡期だったのでしょう。
もし、いま自分が乗っているバスに、長いボンネットがついていたら、ボンネットの中には頑丈な鋼鉄のエンジンが入っているわけで、運転士はかなり安全なはず。そういえば、トラックもダンプカーも、消防自動車も、私の子どもの頃には、みな、長いボンネットがついていました。それが、いつからか、正面が平らなものになってしまっている。
私は、いまは自動車を持っていませんが、数年前までは、ボンネットの長い、今時珍しく鋼鉄製のバンパー(いまのクルマは、ほとんどがプラスチックに似た、ABS樹脂製のバンパーですね)をつけた、自重が1トン以上もあるような、四輪駆動車に乗っていました。
私は車の運転が大好きで、友達数人を乗せて12時間以上、紀伊山地の山の中を運転し続けたこともあります(もちろん、途中で何回か休憩はしましたが)。そのクルマは、燃費は最悪でしたが、私は速くて軽いクルマよりも、重くても頑丈で馬力のあるクルマのほうが好きなのです。エンジンの振動がハンドルを通して全身に伝わってくるような、無骨で男らしいクルマでした。免許を取得してから22年になりますが、いままで、無事故無違反でゴールド免許証です。
たしかに、ボンネットが長いと、クルマの取り回しの時(とくに左折時には)ハンドルを切る角度やタイミングが難しいですが(私のそのクルマは、ボンネットにサイドミラーがついていて、そのサイドミラーの下に、ボンネットの真下を見るためのアンダーミラーがついていました。昔のボンネットバスと同じような2段ミラーです。それほどボンネットの長いクルマだったのです)、しかしその感覚(運転席の自分の足元から前輪、そしてボンネットの先端までの距離感)を体で覚えてしまえば、ボンネットの長さなど、何の苦にもなりません。
私の友人は、ボンネットのない、大型のステーションワゴン(ワンボックスカー)に乗っていますが、以前にその助手席に乗せてもらったとき、きょうのバスのいちばん前の座席に座ったときと同じような事を思いました。
「このクルマ、もし正面から何かにぶつかったり、相手に正面からぶつかってこられたら、怪我は免れないな」
と。確かに、ボンネットのないクルマは、自家用車にしても、バスにしても、業務用のものにしても、扱いやすいし、見た目もスマートでカッコイイのかもしれません。でも、そのことで、人間の安全を犠牲にしているのではないでしょうか?
逆に、上記の友人は、私のクルマの助手席に乗ったとき、
「こんなにボンネットの長いクルマ、取り回しが難しくて、俺には扱われへんわ。こりゃ、職人技やなぁ」
と言っていました。これらから思うのですが、現代の日本社会とは、見た目の良さや使い勝手の良さ、いわゆる「誰にでもできる」「簡単」さが第一の価値で、それを扱う人間の安全は二の次三の次ではないかと。社会の価値観そのものが、考え方そのものが、社会のありようそのものが、砂上の楼閣化してしまい、ほんとうに必要とされる、目に見えない価値よりも、外ヅラと安直さだけを追い求め、何もかもが安易な方向へ、安直な方向へと怒涛のごとく流れているのではないかと。だから、守るべきものを守らず、平気で偽装してしまう。偽装にまみれた、こんにちの日本社会。
バスという1つの乗り物から、社会のありさまや社会の価値観まで考えてしまうのは、考えすぎでしょうか???
私は、次に自動車を買う時も、燃費が悪くても、ボンネットの長い、頑丈で馬力のあるクルマを選びます。ボンネットのないクルマは、助手席に乗っていてもちょっと怖いので、自分で運転しようなどという気にはなれません。
いまの私には、したい事が山ほどある。勉強しなければならない事が山ほどある。読まなければならない書籍、文献、資料などが山ほどある。ほんらい行かなければならないところが山ほどある。行きたいと思っているところも山ほどある。そしてこれら以前に、まず解決しなければならない目前の問題が山ほどある。
しかし、いまの私には、これらの山を一気に片づけてしまうだけの、気力(精神力)も体力(健康状態)も、そして経済力もない。まるでいまの社民党のようだ。
しかし、諦めてはいない。1つ1つの問題に対して、真正面から地道に確実に、真摯に真剣に取り組んでゆけば、いつか必ずこれらの山は動くと信じている。
翻って、政治の世界においては、かつて1989年の参院選で、当時の社会党党首、土井たか子氏が「山は動いた!」との名言を残されている。
あの時の感激と感動を、近いうちに再び味わいたい。皆で祝杯をあげたい。
「絶対に、絶対に、絶対に。。。絶対に諦めてはいけない!」
(Never, Never, Never,... Never Give Up!)
By Sir Winston Churchill
きょう、私は4通の航空便を投函しました。アメリカ、中国、ロシア、コンゴの国家元首に宛てたものです。そのあとこれらの国家元首宛てにFAXとメールも送信しました。
アムネスティ・インターナショナルの要請で、これらの国で人権侵害にあい、政府当局の者や警察官などから、拷問・暴行・強姦そして監禁・虐待されている人たちを解放させ、その命を守るためです。世界150カ国180万人のアムネスティのメンバーが、一斉に抗議行動をおこしています。
毎月、そしてときには毎週のように、このような要請がアムネスティ日本やロンドンの国際事務局(本部)から私の元に郵送やメールで届きます。時には緊急行動要請として、命の危機にさらされ、一刻の猶予もないような案件もあります。
私が最も尊敬する外交官である、緒方貞子さん(元国連難民高等弁務官)は、世界中の難民から「マザー・オガタ」と呼ばれて親しまれ、尊敬されています。
その緒方さん自身が語られたことば :
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「人の生命を助ける」というのが私の判断の基準でした。
生きてさえいれば、彼らには次のチャンスが生まれるのです。
(出典:緒方貞子 著 『私の仕事』 草思社 2003)
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彼女は外交官ですが、この判断基準は、すべての政治家にも持っていただきたいものです。人は、国や場所を選んで産まれてくることはできないのですから。すべての国民の生命を守る。すべての国民の生活を守る。そして世界のすべての人の生活と命を守る。その強い使命感があれば、政治に腐敗はおこらないはずです。戦争は起きないはずです。軍隊など必要ないはずです。
私はアムネスティ・インターナショナルのメンバーとして、人権侵害を受けている人たちや難民の人たちを救済するための活動をしている時、いつも「自分も緒方さんのようでありたい」と思い、そして人権侵害を受けている彼ら、彼女らの無事を祈るような気持ちでいます。
世界中の難民から「マザー」と呼ばれ、尊敬されている1人の日本の女性がいる事に、私はとても誇りを感じています。
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「国会議員」という単語を『広辞苑』で引いてみた。
◎国民により選挙され、国会を構成する議員。衆議院議員・参議院議員の総称。
とある。また『日本国憲法』には、
前文冒頭で:
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」
と述べ、さらに
第41条
国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
第66条
内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。
第99条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
などとあります。すなわち国会議員とは、
◎国民により選挙され、国民の信託を得て国家の運営方針たる立法その他の職務にあたる責任と義務を負う。
◎国権の最高機関である国会を構成する。
◎内閣の行政権の行使について連帯責任を負う国会を構成する。
そして
◎国会議員は憲法を尊重し擁護する「義務」を負う。
という職責・義務を有しているのです。
この国会の、しかも法案採決の場という国権最高の発動の機会よりも、自治体選挙応援という私的スケジュールを優先する小沢氏には、『日本国憲法』を読んでいただきたい。すくなくとも『日本国憲法』は、我が国の最高法規であるのだから、身命に刻み込んでいただきたい。
彼の行動は、国会議員としての責任と義務を完全に放棄していると捉えられても、言い逃れのできない、愚行だと思う。
【参考】
『広辞苑』第4版 岩波書店 1995
『六法全書』三修社 2002
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新テロ特措法の衆議院での再可決を受けて、考えさせられたことがあります。
もし、日本にも、ドイツのように「憲法裁判所」(国会で成立した諸法を憲法と照らし合わせて、原告に実害が生じていようがいまいが関係なく、国会での立法を違憲か合憲かを積極的に判断(ドイツ型の抽象的違憲審査制度)をする裁判所・・・ただし日本では『日本国憲法』第76条第2項において既存の裁判所以外の「特別裁判所」の設置が禁じられているので、これをクリアするようなかたちでの憲法裁判所)があれば、新テロ特措法が再可決されるや否や、社民党や共産党は、時をおかずして、すぐさま「憲法裁判所」に提訴し、「新テロ特措法」が違憲か合憲かの判断を、司法の場に委ね、さらなる議論を重ねることができたでしょう。そして、すくなくともその審理の期間中には、新テロ特措法は実行できません(効力が中断される)。
現状の最高裁判所は、唯一、憲法条文に照らして諸法の違憲性を判断できる最終の審理機関ですが、しかし最高裁が違憲審査をできるのは、個別の、個々の紛争に限って、原告に実害が生じている場合にのみ、その紛争解決を計るためにのみ、その事件に関する諸法に限って違憲かどうかを判断をするだけの事であって、非常に消極的な違憲審査(アメリカ型の付随的違憲審査制度)です。積極的に国会で成立した諸法が違憲かどうかを審理・判断する権限は最高裁には与えられていません。
溯って、昨年11月頃に出てきた、生活保護費支給額の引き下げ論も、結果的には、衆院選を控えて、与党が選挙戦略として一旦、引っ込めたかたちになりましたが、この法案が、もし衆議院で可決し、参議院で否決し、再度衆議院で可決すれば、私たちは、もう、なすすべがないですよね。
『日本国憲法』第25条には、
第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
と、国民の生存権を保障しています。
そして、生活保護制度は、この憲法25条を実現するための制度です。そして現状の生活保護費支給額が(仮に)、この憲法の条文の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を実現するための金額だとすれば(実際には到底不十分なのですが)、原油価格の高騰で、あらゆる生活必需品の物価が上昇している中での生活保護費の支給額引き下げは、あきらかに憲法25条違反ではないですか!
しかし、この国には「憲法裁判所」がないために、もし、この生活保護費支給額引き下げの法案が提出されていたならば、衆議院可決→参議院否決→衆議院再可決。となって憲法違反であるにもかかわらず、その法律は成立してしまうことになります。
即ち、現状の日本の法制は、憲法条文と国会で成立した諸法との間に整合性がない(矛盾が生じている)のです。これは、近代法治国家の要素を満たしていません。まったくもって情けないことです。
真の三権分立とは、他の二権を監視し合い、それぞれが暴走を防ぐことを目的としているはずなのに、この日本の国の三権分立では、憲法裁判所がないために、いま、国会は、政権与党は、やりたい放題。暴走しまくりではないですか。
これでは、『日本国憲法』98条の存在意義がないではないですか!
『日本国憲法』
第98条
この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。
もし、日本にドイツのような「憲法裁判所」があれば、生活保護費支給額減額案など、出てくる余地はありません。また、新・旧テロ特措法も「違憲(憲法9条違反。即ち、自国軍の海外展開、集団的自衛権の行使、兵站による他国の戦争の幇助)」との判断が出て、憲法98条の規定によって、破棄されていた可能性が大です。安倍政権時の異常な強行採決群も有り得なかったでしょう。
私は、社会学者であって、法律には、全くのシロウトです。そんなシロウトの私にでもわかるような、この国の司法制度の致命的な大欠陥。
即ち、憲法裁判所が存在しないことによって、国会での立法が暴走し、現在、違憲な立法がまかり通っている。ということがシロウトの私にでさえ、手に取るようにわかります。
法律のプロである、弁護士や、国会議員、裁判官たちは、なぜ、我が国の司法のこの致命的な大欠陥を、いままで見逃してきたのか。なぜ「憲法裁判所の設置運動」を起こしてこなかったのか。あまりの問題意識の低さ。
私は、「護憲政党」である社民党政策審議会に対して、まず、今回成立した新テロ特措法を「国民の税金を他国の戦争支援に使用している。これは不当な税の使途ではないか」と、個別紛争化して、新テロ特措法の違憲審査を求めて「党」として提訴して欲しい。そして近い将来に、日本にも、現行憲法の76条をクリアするかたちで(たとえば、最高裁判所の支局としての)、「憲法裁判所」の設置を検討・実現して欲しい。「憲法を護り、活かすために!」との提案をしました。ドイツにできて、日本にできないはずはない!
日本が、真の近代法治国家となるために!
日本が、真の三審制の意義を発揮できるためには、どうしても「憲法裁判所」が必要です!
日本が、国会の暴走を止め、これ以上違憲な立法を防止するために!
【参考】
『六法全書』三修社 2002
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いまの日本社会では、おそらく誰もが「格差」の存在を認識し「貧困層」の存在を認めるでしょう。
では、いったい何が「格差」「貧困層」を生み出したのでしょうか?
それは、小泉・安倍政権での、「構造改革」という、規制緩和による市場競争原理をこの国の社会に敷衍させてしまったことが、原因ではないでしょうか?
格差・貧困は、差別・偏見を生みます。生活保護世帯への社会からの冷たい視線。。。
このブログでも取り上げた、銀行の悪質な貸し剥がし(改正貸金業法による悪弊)。
参考:
【緊急抗議要請】 和歌山の紀陽銀行が生活保護受給者を差別・人権侵害
http://tokidokilogos.blog109.fc2.com/blog-entry-74.html
翻って、『日本国憲法』には、以下のような条文があります。
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日本国憲法
第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分、または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない。
第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
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即ち、憲法第14条では、国民に対して「政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」と保障し、そして第25条では、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と宣言しています。
そして、いよいよ第98条の登場!
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日本国憲法
第98条
この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。
======================== ◇ ========================
即ち、第98条では、憲法の条文に1つでも反するような全ての「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」を絶対に認めない!と「断言」しているのです。
ということは、現実に、格差・貧困を生み出し、そのなかから差別が生じているとすれば、それは、憲法第14条・第25条の精神に反している事であり、その格差・貧困を生み出した「構造改革路線」に乗って提出可決された法案は、「憲法第14条・第25条の精神に反している結果を生み出した」のであり、それは憲法第98条の規定によって、全否定され、破棄されなければならないのではないでしょうか?
また、軍事面では、新イラク特措法が、再度衆議院で可決されても、憲法9条に反している「恐れ」がある以上(私は、個人的には完全なる憲法9条違反だと考えていますが)、憲法98条の規定により、効力を有さず、破棄されるべきものではないでしょうか?
護憲政党は、新イラク特措法が再度衆議院で可決されるや否や、政党自体が即刻原告となって、司法の場へ「新イラク特措法」を持ち込み、違憲審査を求めて司法の判断を仰ぐのが良いでしょう。私はこの事を社民党政策審議会に提案してみました。
このように、憲法98条は、普段はあまり注目されませんが、「イザ!」という時には、この国の全ての「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」を全否定し、破棄させるだけの、凄まじいチカラを持った条文なのです。
護憲政党は、この憲法98条の強大なるチカラをフル活用することによって、小泉・安倍路線で生み出された格差・貧困の元凶となった様々な悪法を、破棄させ、社会を再生させることができるのではないでしょうか(場合によっては違憲審査という、司法的手段を用いて)。
私は、この憲法98条こそ、『日本国憲法』がみずから『日本国憲法』を護り、改悪をさせないための、最後の切り札であり、最大・最高のチカラを持っている条文であると考えています。
『日本国憲法』第98条は、いわば「スーパー98条!」。憲法の条文以外の「全ての法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為」を「粉砕」するだけの、凄まじい「破壊力」を持っているのですから!(了)
(C)無断引用・無断転載不可。全ての記事の著作権は鳥居正宏にあり、日本国の著作権法及び国際条約によって保護されています。
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きょうから、新しい1年が動き出しました。
そこで、何を書こうかと色々と考えていたのですが、やはり「憲法」の話題にすることにしました。
「憲法」を『広辞苑』で引くと、
国家存立の基本的条件を定めた根本法。国の統治権、根本的な機関、作用の大原則を定めた基礎法で、通常他の法律・命令を以て変更することを許さない国の最高法規とされる。
との説明があります。
「通常他の法律・命令を以て変更することを許さない」とあるのです!
また、この憲法の存在意義は、以下の2つの意味をあわせ持っています。
1.国家権力の行使に枠を嵌めて、無秩序で恣意的な権利侵害が行われないようにする。
2.民定憲法の場合、国家に課せられた国民に対する義務を明確化すると同時に、国民の権利を明確化しこれを保障する。
そこで、我らが『日本国憲法』を見てみましょう。
日本国憲法は「民定憲法」です。よく「GHQから押し付けられたものだ」と言う人がいますが、少し歴史を調べれば、それは大間違いで、例えば終戦後、新憲法起草にあたっては、日本国民からの数次にわたる草案が提出されています。有名なものでは、鈴木安蔵らによる3次にわたる草案があり、この鈴木らの案のもととなったものには、さらに溯ること明治期に及んで、自由民権運動期に起こされた植木枝盛の「東洋大日本國國憲案」や、立志社による「日本國國憲按」などがあります。現・日本国憲法の条文は、これらの草案の影響を大きく受けているのです。草案そのままの条文もあります。GHQが関与(検閲)した事には違いありませんが、けっしてGHQから一方的に押し付けられたものではなく、日本人の草案を可能な限り最大限に活かした、日本人による「民定憲法」であることは歴とした事実です。
では、『日本国憲法』の前文を見てみましょう。
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日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理念と目的を達成することを誓ふ。
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このように、前文の最後に「誓ふ」と述べて、以下に具体的条文に入ります。即ち、『日本国憲法』は、日本国という「国家の誓い」を述べた憲章なのです。
その証拠として、この『日本国憲法』発足後、初の内閣である、片山哲内閣の最初の施政方針演説で、片山哲首相(旧社会党)は、
「第一に申し上げたい点は、憲法に対する政府の信念であります。政府は新憲法を嚴に守りまして、その精神を生かすことに最も忠実であることをここに誓うものであります。(拍手)特に新憲法のもつておりまする民主主義の大精神、平和主義の大理想、これを政府は一切の政治行動の大目標として掲げたいと考えておるのであります。これを大膽明快に現実化いたしたいと考えておるのであります。」(出典:「1-衆-本会議-8号 昭和22年07月01日(国務大臣 片山哲 施政方針演説))
と、「政府は新憲法を嚴に守りまして、その精神を生かすことに最も忠実であることをここに誓うものであります」と述べています。
では、この憲法は、いったい誰に誓っているのか?
それは、『日本国憲法』は、民主主義国家における民定憲法である以上、国家の最高法規として、国家が国民にむかって誓っているのです。いくら政権が変わろうとも、「国家」が国民に誓っている以上、これを変更することはできません。政権は国家を運営する機能であり、国家そのものではありません。いくら政権が変わろうとも、「国家」は、厳として存在しているのです!
全ての条文は、国家が国民に誓っている、国家の国民に対する果たさなければならない「義務」なのです。
ですから、例えば
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第9条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第21条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
第25条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
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これらはみな、国家の国民に対する「誓い」であり、国家が国民に対して果たすべき「義務」を述べた文なのです。
しかし、いま、現実に、この国家の国民に対する「誓い」「義務」が、国家を運営する政権(政府)がしっかりと護っているでしょうか?
護られていないものばかりではないですか!
第9条では、「国家」は私たち国民に「二度と戦争はしない。軍隊は持たない」と誓っているにもかかわらず、「現政府」は海外へ軍隊を派遣し、戦争に加担している。この政府の欺瞞、主権者たる国民をバカにしきった政府による国家と国民への裏切り行為に対して、私たちは声を上げ、政府の欺きを、市民運動や選挙によって合法的に徹底糾弾すべきが、「真の近代民主主義国家」における「市民社会の社会構成員」である私たち「市民の責務」ではないでしょうか。
いま、政府は、この『日本国憲法』という「国家」の国民に対するの誓いと義務を護ることができなくなったから、護る能力がなくなってきたから、護る気がしなくなってきたから、「改憲」と言い始めているのではないでしょうか?
「改憲」とは、上記の如く、まさに、「政府」が「国家の最高主権者」たる私たち国民・市民をナメきった、欺瞞に満ちた悪質極まりない詭弁です。
私たちは、騙されてはなりません。
最近「今の憲法は、もう時代に合わない」という言葉をよく耳にしますが、私は、歴史と社会学を専門に学んできた者として、それは大間違いであると思っています。私は「憲法が時代に合わなくなったのではなくて、時代が、社会が、憲法の精神に合わせようとしなくなった」と認識しています。よって、改めるべきは憲法ではなく、社会であるはずです。「憲法を改める」のではなく、社会を「憲法の精神に合致した社会」に変革してゆくべきではないでしょうか。
私たちの日本国憲法は、世界中、他に例を見ない「徹底した平和主義(非武装・戦争放棄)を根幹とした、人道主義・民主主義(主権在民)」の誇り高き憲章です。人類普遍の最も崇高なる理念を高らかに謳い上げた「世界で最も美しい」法典です。
私たち市民は、憲法によって国家が国民に誓い、その義務を果たすことを保障した各条文の定めを最大限に享受し、日々の生活を幸せなものへとしてゆかなければなりません。
すくなくとも、9条では、国家は国民に対して「二度と戦争はしない。軍隊は持たない」と誓ったのです。この誓いと義務を破るような政府を赦してはなりません。この誓いは、私たち1人1人の市民が、国家権力の下で人を殺さず、人に殺されずに、日々平和に、平安に生活できる事を保障しているものなのですから。
「憲法」とは、国家の最高法規であると同時に、私たち1人1人の市民が、平和に、平安に日常生活を送って行くために活用しなければならない「生きた法典」であると考えています。
私たちが日々日常の中で、憲法を活かしてこそ、憲法の真価が発揮されるのであり、その活用をやめたところで、憲法は死んでしまいます。そうすると「時代に合わなくなった」などの詭弁を述べ、「改憲」との欺瞞に満ちた言動を騙る者が生じて、ズタズタに破壊されてしまうのです。それは、憲法をズタズタに破壊されてしまうのではなくて、「私たち1人1人の日々の生活をズタズタに破壊されてしまう」ことになるのです。
私は、法律の専門家ではありません。憲法学者でもありません。憲法をめぐっては、様々な解釈があるでしょう。
しかし、私は、歴史社会学者として、いまの日本社会と『日本国憲法』の理念との乖離を見て、いま、なぜ「護憲」なのか!
という事に対しては、私は以上のような考え(信条)を抱いているのです。(了)
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新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます
平和で平安な1年でありますように!
皆様に、幸多き1年でありますように!
世界のみんなが、幸せでありますように!
本年も私は、「護憲・非戦・反差別」の旗を掲げ、強きに挑み、弱きに寄り添う一市民として、微力ながらも、努力・邁進、そして情報の発信をして参りたいと決意しております。
今後とも、ご指導・ご鞭撻の程、何卒よろしくお願い申し上げます。

わたしの年賀状
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2008年1月1日
鳥居正宏 拝
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